初めに薔薇があって・・・

北村薫さんの文章の中に、

「言うまでもないことだが、薔薇が初めにあり、その後に薔薇という名前ができた」

とある。

 

で、私は先日のレクチャーで、「この認識は間違えている」とした。

別の話からの流れで話したのでこれについて深く話すことはできなかった。

 

で、何が言いたかったのかといえば、

薔薇という「モノ」がア・プリオリに存在しているということはないということ。

レクチャーで話せなかったところも含めて説明をしたい。

前段の話を抜かすので説明が足りないと考えられるがなにとぞご容赦を。

 

さて、我々は赤から紫まであらゆる色を見分けます。

そして、さまざまな色に名前がついているわけですが、

では、特定の色というのはどう考えられるのか?

連続した波長の中に赤いと認識される色があり、

そのうちに橙色となり黄色となって・・・・

この波長の変化の過程で特定の色として分断できるところがあるかと言えば、

それはないとしか言えないでしょう。

しかし、何らかのかたちで我々は色をカテゴリー化して認識します。

だから、赤色がそこにあるというのではなく、

我々が赤色と認識して、

すなわち認識することでそれを指し示す記号(言葉)ができることによって、

赤色が存在し得るわけです。

 

生物は、分けようと思えば個体レベルにまで分類可能でしょう。

それはクローンであっても同じことで、

ブリダンの驢馬の逸話を出すまでもなく、

別個体として認識されるべきモノだからです。

しかし、どうも我々の認識では、個体レベルよりも一つ上のレベルで、

生きものは一つ一つのカテゴリーに分けられると気付きました。

まあ、この認識が「分類学」という学問の成立につながるわけで、

これが分類学は学問というよりは哲学大系に近いと言われる所以です。

で、ある植物を最小単位としての分類群に入れて、

それに「薔薇」という名前を与えた。

その瞬間に「薔薇」という概念が成立し薔薇が存在し得ることとなった。

これは屁理屈ではありません。

だから、我々が薔薇と言われたら一つのイメージを思い描きますが、

そのイメージ通りの薔薇なんて世の中には一本もありません。

逆に、実在する薔薇のどれ一つとしてまったく同じものはあり得ない。

これは時間を永遠の過去あるいは未来へと移動しても、

完全に同じ薔薇は存在し得ないということです。

したがって、薔薇という名前を決める為には

薔薇というカテゴリーを認識しなければならないわけで、

それはひとえに脳の所作ということに他なりません。

 

我々は、すべての人が同じように感じ、

しかし、話す言葉によってその表現が異なると思いがちです。

しかし、たとえば「口惜しい」を表現する言葉は英語にありません。

で、結果なのか原因なのか分かりませんが、

アメリカ人は「口惜しい」という感情を持たないそうです。

英語に訳せない他にも日本語が結構あります。

逆に日本語にできない英語もたくさんあります。

以前の対談で

「英語は日本語ほど表現が豊かではありませんよね」と

戸田奈津子さんに質問していたが、

これなどは、日本人が感じることを表現する英語がないということに過ぎない。

 

で、日本人は特に「話せば分かる」と考える向きが多いと思う。

しかし、異なる言語環境で育ち、異なる風俗習慣・異なる宗教に育まれた人間が

すべて同じように感じると思う方が無理がある。

これも「初めに薔薇があって」と考える思想に近いと思うのは穿ち過ぎだろうか?

何にしても、何かを認識するのは己の脳であるということ、

その認識を情報としてどのように処理するのかは、

言語による影響が大きいし、宗教の影響も計り知れないだろう。

ただ、言語と論理、認識や宗教は歴史的に互いに関係し合いながら洗練されてきた。

そのためにどれが大元にあるのかについてはまったく分からない。

とにかく言語がなければ論理はないだろうことは多分正しいだろうが、

では思考過程に言語を用いているのかと問われれば、そんなことはない。

それをどう考えたら良いのか、

ここにサピアは苦しんだのかもしれないなあ。