科学(あるいはミステリ)の嗜好

その場に存在するすべての要素がどう並ぶのか、

その関係性が五里霧中であるときに、

ものの見事に並べて見せるのが不可能犯罪型のミステリであろう。

対して、非常にきれいに(常識的に)並んでいる要素の関係性をいちど壊して、

まったく予想だにしなかった新しい並びを見せてくれるのがどんでん返し型のミステリ。

どちらが好みかはそれぞれの価値観によるところが大きいと思う。

 

科学においても同様の好みの違いがあるように感じる。

すでに常識となっているものを並び替えてまったく違う新しい常識を作るのか、

それとも深い闇の中に光を灯すのかである。

私の好みから言えば、不可能犯罪を暴くよりはどんでん返しをしてみたい。

 

ただ、どんでん返しをするためには「間違った常識」が前提に要るわけで、

どの常識が間違えているのかわからなければ、

あるいはそもそもその常識が間違えていなければどんでん返しはできない。

それに比べて不可能犯罪、すなわち解明できていない謎はいくらでも存在する。

だから、取っ掛かりは簡単なのだが、

過去の偉人たちが解けなかった謎に挑むわけだから、

その困難さは想像に難くない。

まあ、どちらの型の科学であってもそれが成就できれば素晴らしい。

 

ただ、存在する証拠(要素)に論理的な関係性を成立させるという意味においては両者に違いはない。

その前提に、間違った常識があるのか真っ暗闇なのかが異なるだけである。

ここに、もうひとつ異なるタイプの科学(ミステリ)がある。

それは存在が論理的に予見されているものを見つけ出す型である。

論理を構築したら、こういう物質がなければならない。

まあ言わば「ミッシングリンク」を見つける作業である。

長期間に渡って追い求められてきたヒッグス粒子のようなものを探し出せたときの快感はすごいだろう。

 

ただ、これは論理(関係性)の構築ではなく、

ある意味で、決まったゴールへ誰が先に着くのかを競うゲームの様相が強い。

大学院の時の私の恩師はミッシングリンク探しを嫌っていた。

「論理さえ構築できたら、もの探しはバカのする仕事だ」などとおっしゃっていた。

その影響を受けたのだろうか、私もこの手の学問(ミステリ)を好まない。

 

さて、ここで便宜的にいくつかのパターンに科学を分けてみた。

しかし、もちろんこれらの典型に入るものばかりではない。

過去にも書いたことがあるのだが、

大好きなピーター=ミッチェルの話をさせて頂く。

論理的にその存在が予見され、誰もが信じて疑わなかったATP合成の鍵となる物質(X−P)、

その発見競争が激化していた時の話である。

これは、存在が確定的に予見されてきたという意味での「常識」ともいえた。

ミッチェルは、その常識を覆し、

誰もが想像だにしなかった論理でATP合成酵素を「発見」した。

これは、上にあげた例にあてれば、

「真っ暗闇の中」で、「常識」を覆し、「競争」に勝ったということになろう。

しかもその方法論が極めて論理的で美しい。

もう、離れ業のような理想的な科学である。