責任

このところ英語の話を書いているのでその流れでもう一つ。

責任を英語にするとresponsibilityとなる。

これはどの辞書にも書いていることだし、学校でもこう習う。

だから、英文中にresponsibilityがあれば責任と訳すし、

日本語の責任はresponsibilityという英単語を用いいて英語に変換する。

それを問題視する人はおそらくいないだろう(いるかもしれないが)。

 

上記の意見それだけをとれば全く異論はない。

しかし、そのままに受け入れられると大きな違和感を覚える。

英語のいう責任とは、その自体に対応できることであり反応できることである。

だから対応・反応を表すresponseに、その能力を表現する-bilityがついている。

いかにその自体を乗り切れる能力を持てるかということが「責任」なのだ。

でも、日本語の文脈での責任とは、将来的な対応能力ではないと思える。

すでに起こっている何らかの自体に対しての「腹切り」をして責任という言葉を用いている。

これは言語というよりは文化の差だと言えよう。

何か事故や事件があった時の記者会見などを見たら分かりやすい。

記者のいう「責任」とは「辞めるか辞めないか」ということと同義であろうし、

発言者も「責任」を取るというニュアンスのことを言えば、

ニュース速報で「辞任を示唆」と流れる。

もちろん、状況に対応する能力(すなわち英語の「責任」)がなかったから

そのような事故や事件を引き起こしたと考え、

だから、今後の責任としては更なる対応能力(responsibility)を持つ人と交代することが

今の自分のとりうる最高の「対応」であるという穿った見方はできるかもしれない。

しかし、それはあくまでも屁理屈であって、

我々日本人は「責任」という言葉を英語の表す意味では用いていないと思うし、

むしろ正反対のニュアンスすら感じてしまうのである。

 

この意味において、responsibilitiyを機械的に責任と約し、

責任を機械的にresponsibilityと約することによって生じる違和感は大いに問題だろうと思う。

どこかにも書いたが、「当社はこれまで製品の品質には万全の努力を払って参りました」という

日本ならではの文章があるが、

これは「ずっと努力し続けている」と言う意味で我々には馴染みの文言である。

しかしこれをこの文章に忠実に現在完了進行形で訳すと、

「これまでずっと努力してきた(けど、まだ達成できていない)」というネガティブな意味になる。

これは純粋な言語の問題と言うよりも

国民性の問題であろうと思えてならない。

謙譲の気持ちがなければこの言葉の意味は伝わらない。

お土産を「つまらないものですが」と言うのと同じことである。

最高のものを探しまわり、苦労をして手に入れても、

それを送る時には「つまらないものですが」という。

そして、それを受け取る相手も相手が苦労をして選んでくれたであろうことはわかっている。

これが日本語である。

だからこの言葉を英語に訳すとすれば”This is a very special thing for you”みたいな

日本人にはコッパズカシクて口に出せない表現になるだろう。

だから、文法だけで勉強したら外国語はモノにできないということなのである。

 

以前にある大臣がアメリカの政府高官を日本に迎えた時に空港で相手に発した言葉が

「日本は米を食べる国、アメリカは米の国(米国)だから仲良くしましょう」だったらしい。

通訳はそれを訳せなくて”How do you do?”としたと有名な同時通訳の方が回顧録に書いておられた。

これを笑い話として読むのは正しいのだが、

実際には同様のことが日本語と外国語の間では日常的に起こっているし、

起こり得ることであるのはまぎれも無い事実であろう。

問題は、それに気付かずにいることなのだろう。