ミステリ小説のかたち
ミステリ小説にとってトリックに先例があるかないかがしばしば重要であるとされる。
その気持ちは非常によく分かる。
ドキドキして読んだあげくに使い古されたトリックだったらがっかりする。
「知らなかった」では済まされない厳しい掟も作家間には存在しそうだ。
だから、この事実自体を受け入れることは容易いことである。
が、ではこの世に出てくる推理小説はすべてが新規のトリックを使っているのか?
と言われれば、そんなことは全くないことは誰にでも分かることであろう。
それはなぜなのだろうか?
まず間違いなく言えることは、トリックだけに頼った小説ならいざ知らず、
そんな小説はきわめて少数であろうから、
大切なのはそのトリックをどのような文脈で用いるのかだろう。
いつも言うことだが、「意味」は文脈により規定される。
そのトリックも、それだけを切り出して論じるものではない。
「星を継ぐもの」のトリックも、
トリックとしてみたらミステリ小説にはいくらでも先例があろうが、
あの小説を読んで、その先例に思いが至ることはあるまい。
使われ方の規模がでかすぎるし、使われる状況が完璧だからである。
モルグ街以来、トリックは出尽くしたのかもしれない。
しかし、それが問題なのではない。
既存のトリックを組み合わせ、全く別のパターンを作ることに意味がある。
そこには全く別の作品が出来上がるのである。
もちろん、たまには全く新しいトリックがないこともないかもしれない(ややこしい)。
でも、ほとんどすべてのトリックはどこかにあるものに少し変化を与えただけだろう。
さて、先日来、ミステリについて書き続けてきた。
その理由を「ミステリのかたち」について書こうと思って、
話が横道にそれ続けたからとかいた。
最初に言いたかったことはまさにここである。
ところで、このコラムで「トリックのパターン」について私が書いていることは、
まさに「ソフトモデル」ではありませんか???