風が吹けば・・・?
風が吹けば桶屋が儲かる式の論理は、
あたかも数式のように他の体系にもかなり正確に移し得るように思う。
すなわち、違う言語に翻訳されても誤解されることはかなり少ないだろう。
この手の論理的な進め方を「科学的」と言われるのも、
科学的事象は可能な限り誤解を与えない為にも
一から二、二から三という論理の構築が手段として有効であるからだろう。
しかし、日本語の論理体系で表現されたものを英語に移し得ない。
説明的な翻訳は可能な場合もあるだろうが、
その日本語が意味するところを正確に英語で表現することは
無理である場合が多いように感じるし、
日本語の論理構成を英語の論理構成に移し替える作業は
おそらく特殊な場合を除いてほぼ不可能だろうとさえ思う
(https://hashimochi.com/archives/3011)。
この両者の違いはどこにあるのだろうか?
まず、「風が吹けば・・・」の流れは、
ひとつの事実ともう一つの事実の関係性のみでひとまずの論理を閉じる。
次にその結論を事実として別の事実との関係性を論じる。
これを繰り返すかぎり、用いる論理体系から受ける影響を排除できるわけである。
要素を二つに限定した時には、かなり特殊な条件として、
二つの間だけの関係性を議論する他にない。
しかし、現実には論理を構成する要素は二つに限定されない。
多数の要素の関係を論じなければならない。
だから、要素が二つのみという特殊な条件下で得られた結論は
当然非常に特殊なものであるわけで、
この流れを押し進めることによって複数の要素を扱った場合には、
かなり特殊な論理が構成されていることとなる。
「多数の要素を同時に並べる(体系立てる)」時には依って立つ体系が必要であり、
それが言語体系であったり哲学体系であったり、
時には数学であったりするのではなかろうか?
この際に、たとえば西洋科学的に要素に意味付けをするのか、
それとも関係性の方に重きを置くのかなど、
用いる体系の違いによって、
そこに出現する「論理」がまったく異なる。
日本人はこれを理解しているから、
「風が吹けば桶屋が儲かる」の逸話で西洋的な論理の進め方を茶化しているのかもしれない。
この逸話を思うと私には分子生物学を感じざるを得ない。
ある分子と別の分子の関係性を論じ、
その分子とまた別の分子との関係性を論じた上で、
カスケードのような論理を組み立てる。
このカスケードこそが「風が吹けば・・・」に他ならない。
しかし、それによって生きものを理解できているかと言えば、
否としかいえないだろう。
そこで、分子生物学の考え方は、私は極めて西洋的だと思うのだが、
これを繰り返して「網羅的」に二者間の関係性を集積すれば
生きものを分子のことばで理解できるとする。
私はこの考え方に真っ向から反対しているのだが、
では本当のところどうなのかと言われればわからない。
いま、分子で生きもの理解が進んでいない理由が
「データが足りないだけ」だと言われたら反論できない。
網羅的にデータが蓄積されたら本当に生きものが理解できるかもしれない。
すべての分子の働きが分かっても生きものは理解されないとの立場を取るが、
その際にも、理解できないのはまだすべてが分かっていないからだと
逆説的に言われたらもはやどうしようもない。
なんにしても、分子生物学は西洋科学的論理体系に依存しているのは間違いない。
分子ひとつひとつに「個」としての意味付けをし、
それが生命現象にも絶対的な意味があると考える思考方法は、
あまりにも西洋的であるとしか思えない。
ただ、この方法論を否定するつもりはない。
分子生物学の知見から分かったことは数しれないからである。
しかし、どの方法論にも限界がある。
適応できる範囲を逸脱しては意味がない。
しかし、現在の私たちは、「分子」「遺伝子」という言葉の前で
思考停止させられてしまうようだ。
遺伝子で語ることのできる事象とできない事象は
論理的に分けて考えられるべきものだと思うのだが
そう考えない人が非常に多いのは歴然としている。