科学

「科学」とは何かと考える。

 

決まった定義があるのだろうか??

ある辞書によると

「一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。

また、その成果としての体系的知識。」とある。

 

以前にも書いたことだが、

科学と技術はその本質からまったく異なる。

極論すれば思想的には正反対と言っても過言ではないとすら思える。

それはどういうことなのだろうか考えてみたい。

 

科学を橋本流に端的に定義してしまえば

「ある体系に潜む論理を見つけ出す行為」だと思う。

だから、すべからく科学は論理的でなくてはならない。

私たちは生物学者だから「生物(生命)」の論理を解き明かすことが

私たちにとっての科学である。

私は生命の論理はすなわちゲノム体系であろうと思っているので、

ゲノムの論理を解き明かすことが生物学であろうと考えている。

 

科学という日本語は、しばしば自然科学のみを指すように思われているが、

例えば言語学が科学であるという所以は、

言語という論理体系の中に潜む「論理」を探りながら

文法というかたちに記載する学問であるからであろう。

あるいは、他の言語や方言などとの比較解析により

その言語の進化的な成り立ちから成立のきっかけに至るまでの

「論理的背景」を探り明らかにしようとする意味で科学である。

動物の行動に潜む論理体系を研究する学問が「動物行動学」であり、

市場経済の論理を探究する学問が経済学なのであろう。

数学は、そもそもア・プリオリに存在しない自然数という概念を規定し、

加減乗除という法則性の元にそれら数字が互いに関係する法則性を探る学問である。

ある法則性を与えれば数字は勝手に運動を始める。

その運動には、最初に与えた規則だけではなく、

数字たちの関係性によって決められている何らかの拘束や制限がある。

この、数字たちが織りなす関係性により生じる論理を探るのが数学という学問であろう。

 

経済学にしても行動学にしても、あるいは言語学や記号学にしても、

その論理の方法論として言語以外にしばしば数学が用いられる。

これは、数学が極めて純粋な論理体系であることが基本にある。

言語そのものも論理体系なのであるから、

たとえば多くの学問において言語体系の論理が方法論的に用いられている。

言語による思考をおこない、言語による記載をし、言語による討論をする以上は、

これはまったく仕方ないことである。

この意味で数学と言語学は極めて良く似ている。

すなわち、言語の体系を探る行為と数学の大系を探る行為は、

扱うシステムが異なるだけであり質的な意味において

相似というよりは相同であろうと思う。

言語で、時間表現や空間・色彩など様々な表現が可能であると同様に、

数学でも、ある条件下では時間を表し、また別の時には運動を表すことができる。

面積や体積を表現することもできる。

だから、数学の論理を用いて物理学や経済学など直接数学とは関係のない現象を解くことができる。

 

これらの意味で数学は、

科学ではなく科学を解く方法として利用されている。

言語そのものを科学の対象にせず、論理の道具とする場合と同様のことである。

生物学においても、かたち作りなどでは近年数学的思考が導入され始めており

何らかの式を立てることによって紋様形成などを説明できているのだが、

そこから物質へのつながりがいまだに遠すぎる感は否めない。

これらはすべて、現象を数学の論理体系によって説明していることであり、

これを言語の論理体系で説明することはおそらくは不可能であろう。

 

このように、科学とはあらゆる現象に潜在する論理体系を解き明かす学問であり、

たとえば、その論理の一部が解明された時に、

その論理を用いて何かに応用することが可能となろう。

これが「技術」なのだろうと私は思う。

だから、概念としての「科学」と「技術」はまったく異なると思うのである。

ただし、現実には科学と技術の線引きが難しい領域も多分に存在する。

研究者の意識が科学(基礎)にあるか技術(応用)にあるかによって、

同じことをしていても科学だと思うか技術だと思うかが異なる場合もあろう。

 

昨今の理科離れは、個人的には自然科学離れというよりは論理離れだと感じる。

理系であれ文系であれ、何かを研究する時には論理的思考が求められる。

小中学校で論理的思考を要求される(ように見える)教科は理科と数学であって

社会や国語ではないと感じられるから、

論理的好意を苦手だと感じればついつい理科離れになりやすいのだろう。

 

文系学問(社会科学)の研究をしたことがないので大いに誤解しているかもしれないが、

個人的には、文系の研究は非常に難しいと思う。

入り乱れた膨大な要素を取捨選択しながら論理を構築するなんて、

常人のなせる業ではないような気さえする。

だから、逆に「何を言っても大丈夫」な空気もあるのではないか?

自然科学では登場する要素の数が限定されるので

いい加減なことを言えばすぐにそれが非論理的だとバレてしまうが、

社会科学では、非論理的なことを言っても、

それが非論理的だと論証することがなかなか難しいのだろうと感じる。

だから屁理屈でもごり押しできることがありそうな気はする。

一部のコメンテーターなどは、

論理などまったく存在のしない自分勝手な言い分を大声で叫んでいるように思う。

他人の意見を聞かない、自分の意見は主張するが論理的な裏付けを行なわないなど、

一方的かつムチャクチャな屁理屈を叫んでいる人が

なぜこれほどテレビに顔を出し続けられるのかと不思議に思うこともあるが、

逆にあのようなキャラクターがウケているのかもしれない。

なんにしてもあれは論理的ではないし、

ましてや科学的では決してない。

科学とは、あくまでも謙虚に現象に潜在する論理体系を求める作業なのである。