時間と空間

西川伸一先生のセミナーを聴いた。

多岐にわたるテーマを一筋の流れとしてまとめておられたので、

話としてはすんなり聞けたのだが、

ひとつひとつについてはその都度質問をしたい事ばかりだった。

例えば、時間はア・プリオリに存在するという前提で話は流れて行ったが、

まずここで、時間をどう認識するのかについて議論が欲しかった。

ただし、それだけでひとつのセミナーが成立するだろうから

詳細を省く事は仕方のない事なのだろう。

 

また、科学と哲学の分離についてのお話もあった。

「科学が哲学から別れたのはガリレオからだ」というコメントが

セミナー後に宮田先生からあったが、個人的にこれは非常に納得できる。

ただ、科学と哲学についてはその前提が人により異なると思う。

 

科学の成立は、数学の論理体系を数学以外の自然現象に持ち込んだ時にあると思う。

哲学は、言語の論理体系に依存していると考えて間違いはないだろう。

言語はたしかに論理体系であるのだが、純粋論理かと言われればそれは違う。

この点が、言語を論理だと気付かないひとつの理由だろう。

まず言語は、その成立が経験則に依る事は疑い得ない。

ひとつのことがらを表す単語や文章は、

端からそれを指し示す単語や文章として成立はしていない。

その単語をある決まった文脈で用いることによりその単語の意味は決まるので、

もしかしたら、一つ一つの単語や文章の意味が

人によって微妙に解釈が異なっていることは十分にあり得る。

またそこから派生する宗教観や倫理観というもの、

あるいはすべてをまとめて文化と言っても構わないかもしれないが、

それらに依っても言語論理は変化する訳で、

だからこそ、哲学思想は主観により成立しているという

デカルト的な認識が入り込まざるを得ない。

逆に数学を成立させる論理体系には個人により認識が異なるあいまいさはない。

だからこそ、認識の共有ができるし客観化もできうる。

ここに至っては哲学と科学の乖離は決定的となる。

しかしながら、哲学が追い求めて来たひとつの方向は

理論物理学によって「科学的に」確立してゆく。

ここで哲学者のあらたな苦悩(西川先生はstruggleと言った)が始まる。

 

いま、哲学と科学を考える場合に

物事の客観性を確立する為の論理体系の視点から見る必要があると思う。

と言うのは、いかに考えてみても、その思索を行なうのは

例えば言語の論理に完全に依存するのであるから、

言語の論理に乗って論理を思索するという自己矛盾に陥る可能性がある。

数学の論理はこの点をクリアできたから自然現象の深くまで切り込めた。

人は、自己の言語体系に振り回される事なく全く新しい哲学論理を作る事ができた。

蛇足だが、現代哲学の成立には数学は切っても切れない。

私がよく話す「構造論」も数学からの影響を多大に受けている。

数学から導き出された自明の論理を言語環境に照らした時に

どのようなかたちを作り出せるのかというものがひとつの問題ではなかろうか。

問題があり、正解もある。ただ、その正解に至る道筋を

言語の論理がどのようにつける事ができるのか?

 

なんだかダラダラ思いつくままに書いてみて、

ちょっと収拾がつかなくなって来たので

またあらためて考える事とさせてください。