輪廻転生?

 

 




死んだらどこにいくのだろう?

子供の頃、自分を取り巻くこの世界が未来永劫つづくと信じていたころにも、

夜この世の終わりを考え、ひとり恐怖していた。

いや恐怖とは異なる漠然とした大きな不安に苛まれることがあった。

両親や先生に守られ明るい未来だけを確信し安心して生きていたあの頃でも、

絶対に逃れられない目に見えない大きな何かに支配されていることに気が付いていた。

気が付いていながら意識しないようにしていた。

 

その感覚は、大人になったいまではかなり鈍くはなってしまった。

あの頃のような深い絶望感に苛まれることはなくなったように思うが、

でも何かの拍子に同じようなことを考えるときがある。

 

あの頃に感じていた漠とした不安はなんなのか?

いまはそれを自己同一性に結び付けて考えてしまう。

自己同一性、アイデンティティーがなければ、

自己の存在を、自己の意識を、自分が自分であると認識することをすべて止めてしまえば、

この世の終わりなど何の意味もないはずである。

 

脳に構築される論理体系は言語によって担われているとサピアは考えた。

非常に限定的にはまったく同感である。

しかし同時に、言語には翻訳できない論理体系も間違いなく存在する。

哲学や思想が言語に表わしきれないのはそのためであろう。

言語が異なれば思考も異なる。

これはこれで納得できるのだが、

では哲学的思考が言語によってどれだけ影響されているのか?

自己同一性が言語によってどのような影響を受けるのだろう?

宗教観に影響を受けるのはわかる。

日本語を話す限り必ず仏教の影響を受けていると言う人がいるから、

言語体系と自分自身の確率は密接につながっているのだろうか。

とすれば、日本語だって時代により変化するのだから

輪廻転生・生まれ変わりはあり得ないのだろうか。

 

まとまるはずも無いが、最近ずっとこんなことを考えることが多い。

科学のことを考えなければならないのに・・・。