シニフィアンとシニフィエ その6

シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的であり、しかし互いに不可分の存在であるというここまでの議論だと、すべての人は同じ感覚(シニフィエ)を持ち、ただ言語の違いによってその表現様式(シニフィアン)が異なるだけのようにも読める。しかし実際には、意味はア・プリオリに存在し得るものではない。意味とは相対的にしか決まらないわけで、意味を持たせるためには、そのものを切り出す必要が生じる。切り出すとは、そのものとそれ以外との差異を見出す行為とも言える。日本には「里山」という概念がある。質的に里山と同等のものは世界中にも普通にあるのだが、「里山」という概念は日本(語)にしか存在しない。「初めに言葉あり」と言われるが、概念が存在しなければ言葉は誕生しえない。ただし、では概念が生まれるためにはそれを表現するもの(言葉)が存在しなければならないのも明らかである。表現方法自体はどのように決まっても構わないのだが、なんらかの形で表現される必要はある。これがシニフィアンとシニフィエの不可分性だろう。

(つづきます)