シニフィアンとシニフィエ その5

淘汰圧は「意味」にかかる。シニフィエにかかるのであってシニフィアンにかかるわけではない。何らかの理由で意味を持てなくなれば、その表現型は淘汰の対象となる。一般的には変異によって意味を消失する場合が多いのだろうが、例えば深海や洞窟の生物が目を失う場合や工業暗化など環境変化によって意味を失うこともありうる。だから、異なる表現が同じ意味を持った場合には、元の表現は淘汰圧によって保護されない。ソシュールのいうシニフィアンとシニフィエの分離の重要性はこの辺りにあるのだろう。シニフィエの重要性を、われわれ生物学者(特に分子生物学者)は、シニフィアンに見出そうとしているように思えてならないのだが、両者の関係性は恣意的である。繰り返し述べるが、進化を考える場合、意味を持たない情報は中立的な変異を受けるわけで、意味を持つか持たないかが重要となる。また、意味とは相対的なものである。ア・プリオリに意味が生まれることはあり得ない。だから、そのものに意味を与える対象を知らなければ意味の本質は見えてこないだろう。しかし、多くの場合、DNAの塩基配列の変化の議論に終始しているように考えられてならない。ゲノムの中に進化の歴史が記載されている。だから、塩基配列を見る意味はある。しかし、塩基配列のみから進化を考えると重要な何かを見失うと思えてならない。近年、ゲノムという言葉がDNA配列と同義になっている。ここに問題の本質が現れているのかもしれない。

(つづきます)