シニフィアンとシニフィエ その2
ソシュールがらみの文章を読むと、標記の言葉の他にもシーニュとかシニフィカシオンとか共時態とか通時態とか、まあ日常では触れることのない単語に出会う。これらの概念は意味や記号を考える際の基本となるので、一部の人たちには一般用語として使われている向きさえあるし、実際に普通の文章の中に何度か見かけたこともある。
私の脳の中にはこれらが表す意味の「かたち」はある。ただ、それを明瞭な言葉で表現ができない。対面で説明すれば、さまざまな言葉を駆使して何とか理解してもらうように努力をするだろうが、簡単な説明でわかってもらうには私の表現能力は拙すぎる。というわけで、ネットで意味を探してみた。複数のサイトを見たのだが、出どころが同じだったのか、同じ例えが用いられていた。「海」という単語は、「海・うみ」という表記であったり、「うみ」という発音であったりするが、これがフィニシアンである。対して、我々が「海」という言葉を見聞きして思い浮かべるイメージや概念、あるいは意味内容がシニフィエである。そして、両者の間には何ら必然的な関係性はない(恣意的である)。ということらしい。この、「意味の恣意性」を最初に指摘したソシュールがすごいということらしい。同時に、シニフィアンとシニフィエの両者は不可分の存在であることも自明のことであろう。すなわち、シニフィアン(海という文字表記や発音)の存在には、それを裏打ちするシニフィエ(海という概念)がなくてはならないし、シニフィエがあってもそれを表現するシニフィアンがなければシニフィエ自体も存在し得ないからである。どちらが先というのではなく、両者は、互いに依存しながら同時に成立したと考えるべきであろう。「海という表現」が必ずしも「海という概念」を指し示す必然性はまったくないが、海という「概念」なしに海という「文字」だけが存在することはないのは当然のことであろう。と、こう説明がなされたのちに、シニフィエやシニフィアンという単語が登場する文章を読んで、即座に意味がとれるだろうか。新しい概念に触れるとき、いつも私はここに苦労をするし、だから私が書く文章にはこれらの単語がほとんど出てこない。
(つづきます)