組織・体系

体系や組織って言葉は古来の日本語にあったのかな?

私たちが普通に使っている言葉のかなりのものが明治以降に作られた。

汽車・電車・飛行機なんてのは当然そうだと想像はつくだろうが、

実は、自由・権利・平等といった言葉も明治以降にできた日本語である。

明治以前にはこの言葉は日本に存在しておらず、

という事は、明治以前にはこれらの概念そのものがなかったということだろう。

自由という概念、権利という概念に初めて出会った当時の日本人はさぞかし驚いた事だろう。

そして、その成立経緯も何も関係なく、その概念に飛びついてしまったのかもしれない。

平等という概念がないという事は不平等という概念も存在しない事を示す。

たぶんこの感覚は、現在の日本で生きている我々には想像すらできないだろう。

また、哲学という言葉も明治以降に作られたそうだ。

哲学的な思想体系は古来より日本にも存在していたはずであるので、

もしかしたら日本語での哲学は、

日本古来の思想体系と西洋のものを区別する意味合いで使われていると想像したら面白い。

これらは、その概念が導入されて日本語になったというよりは、

その概念を表す西欧の言葉を訳した結果として日本語となったと考える方が理に適っていると思う。

同様に、体系という言葉もなんとなく明治以前に使われていそうな気がしない。

勝手な思い込みなので間違っている可能性は低くないのだが、

何となく英語のsystemの訳語としてでき上がった日本語のような気がする。

 

前提そのものが危ういが、

体系という言葉が明治以降に作られたとして話を進めさせて頂くと、

なぜ日本語にはsystemに相当する言葉がなかったのだろうかという疑問が生じる。

言葉を変えれば、日本社会には体系という概念が存在しなかったということになる。

これはどういうことなのか?

 

欧米では、個人が集合して何かの集団を作るわけで、

それが組織や体系という概念であるのだが、

そもそも基本は絶対個なので、組織や体系という概念そのものが非日常であり、

だから、明確にひとつの概念として作り上げられたのではないかと思う。

これに対して日本人社会は、

「村八分」という言葉が示すように大きな意味で「村社会」と考えて間違いはあるまい。

基本が集団であり、集団の中に個の存在意義を作り上げる。

この点が、欧米人が個の集合体としての体系を作るのとは全く違うということになる。

と考えると、組織や体系というものは極めて人工的であるとなる。

それに対して日本はその存在の前提として集団がある訳で、

とすれば、日本には欧米的な組織や体系がなかったと考える方がいいのだろう。

でき上がったものは、見た目としては非常に似ているのだが、

その成り立ちは正反対であるとの考え方だ。

だから、個から作られる体系・組織という概念が日本には存在しないのはわかる。

 

さて、少し違った見方をしてみよう。

日本語には体系・組織という概念が存在しなかった。

しかし、日本的な社会集団を指し示す言葉はあったのだろうか?

 

私は、集団という概念そのものが日本人にとって当たり前すぎて、

私たちが生きているこの地球が動いていると気付かなかったように、

それを表現する概念すら生まれなかったのではないかと思うのだ。

あるいはそれこそが「村」という概念なのかもしれない。

今や「村」はある意味で物理的な単位になっているような気がするが、

これは「里山」と同様にその状態を表す概念だったと思うし、

現実に現在の日本語でも概念的な意味でこの言葉は使われている。

だから、私が常々提唱している「かたち」も、

この日本的な概念としての「村」と違いはないような気もする。

ただ、村という言葉自体はやはり人間社会の「かたち」を表すものだから、

「かたち論」を「村論」とはできないが、基本概念は相同な感じがする。

 

 

欧米のsystemを輸入してから、日本のかたちは組織へと変わった。

しかし日本人は絶対個としての存在意義を見いだせないままである。

日本人である以上、日本語を使っている以上、「村社会」で生活している以上、

我々は集団の中に自身の存在を見いだすしかないのだろう。

こう考えると、かたち論の議論で「かたち」を体系と言い換えることが

議論を間違った方向へと導く危険性に気付かされる。

間違った方向というより、議論を混乱させるという方が正しいかもしれないが、

西欧的なsystemとは、

遺伝子がそれぞれ己の働きを行なうことで生きものを作り上げるという考え方に近く、

日本的な「村(というのが正しいのか?)」の概念は、

一つ一つの遺伝子に意味はなく、その集合体として意味が生じ生きものができるという、

私が提唱している「ゲノムの概念」に近いのだろう。

構造論が西洋で最初に見いだされた理由は、

日本人には当たり前すぎてその「かたち」が見えなかったということに尽きるのだと思う。

だから、分子生物学に対抗する概念として構造主義生物学の動きが

欧米で起こったのも当然というには当然すぎることだろう。

 

ところで、どなたか「体系」「組織」の語源をご存知の方はいらっしゃいませんか???