人づきあい
トランプ大統領とイーロン=マスクはものすごく近い関係だったように思うのだが、今では互いに罵り合うようにまでなっている。この話はこれ以上私には膨らませようはないのだが、関連して思うことがある。
昔から感じているのは、急速に近くなった二人の関係はある瞬間に破滅することが多い。「多い」というよりは、私の経験では例外なくそうだった。だから私は土足でずかずか踏み込んでくる人が苦手である。一定距離を超えて他人を中に入れない。少しずつ相手のことを知り、その関係が心地よい時、もっと相手のことを知りたいと思う。相手もそう感じてくれている場合にまた会いたいと思う。それが続いたら、広い意味での「好きな人」になる。それでも自分の体重を相手に預けることはしない。相手が転けたらこちらも転けるような、相手がいなくなったら立っていられなくなるような恐ろしいことはできない。だから、必ず一定の距離を保つ。人によったら、距離を詰めたがる人がいる。そういう人と一緒にいると息が詰まる。だから余計に距離を空ける。こういう性格だから「友人」はいない。「親友」なんて想像もできない。ただそれが嫌かというと、個人的にはすごくいい。「ともだち百人できるかな」って歌があるように、友達ができることはいいことで、友達ができないことは悪いことのような風潮が、日本には、存在すると感じる。そう考える人がいるのは構わないのだが、個人的にはまったく賛同できないし、その考えを押し付けないでほしいと思う。小学生だってひとりが好きな子もいるだろうに、それを何か欠陥のように捉えるのは絶対的に間違えていると思っている。
背景には、私が両親共稼ぎの一人っ子という環境があるのかもしれない。小さい頃からひとりだったし、その環境に「適応」して育ってきたので、自分の時間を邪魔されたくないと思う傾向が強い。たまに大勢で遊ぶのもいいかもしれないが、ものすごく疲れる。遊んでいる途中で帰りたくなる。大学院の先輩で十人兄弟の長男がいたが、彼は騒がしい環境が基本にあって、たまに一人で静かにいたいようだ。私に関して言えば、飲むのも基本はひとりがいい。たまにごちゃごちゃ話しながら飲むのも嫌いではないのだが、大勢は苦手である。二人がいい。カウンターが好きなので、カウンターで横並びで飲める相手がいい。多くても四人までだろうが、多くなるとその時に入れるスイッチが異なる。大勢と飲む時は、気持ちをそういうモードにしている。そう装っている。その時はそれなりに楽しいのだが、家に帰った時ぐったり疲れている。まあ、なんにしても、人と関わらない今の環境は私の性格に合っている。