個体発生と系統発生
「個体発生は系統発生を繰り返す」とはヘッケルの有名な言葉である。
では、系統発生と個体発生はどのように似ており、
あるいはどのように違っているのだろうか??
こんな議論は専門家にお任せするしかないのだが、
最近、進化における偶然と必然を考えている流れで
このテーマについても妄想している。
実験的に証明するためにはその現象は必然でなくてはならないだろう。
たまたま偶然にその現象が起こるとするなら、
実験系によって同じことが再現される確率はかなり低くなるはずだからである。
個体発生は、もちろん実験によってその機構が解析されている。
おそらく間違いなく誰がやっても同じ結果を得ることができる、
すなわち実験で最も大切な「再現性」のある研究がなされている。
だから、その機構は「必然」でなければならない。
ただし、余談であるが、その機構として閉じたかたちが必然なのであって
構成する遺伝子自体に意味はないと考えている。
その遺伝子の相同遺伝子が必ずしも同じ時期・領域に発現しなくても、
同じ働きを有する分子がその時期・領域に存在さえすればそれでことは足りるだけのことだろう。
この辺りでは個体発生と系統発生は似ていると思える。
対して系統発生は、これは私だけの考えかもしれないが
おそらく偶然の積み重ねの結果として存在しているはずである。
他のかたちでも良かったのだが、たまたまその生きものができ、
それが自然淘汰に打ち勝って現在まで残って来たということ以上の何もないはずだ。
だから、時間を戻って初めから(途中からでも構わないのだが)進化をやり直すと
いまと同じ生物ができるという保証はないというより、
おそらくはいまとは異なる生きものが残ってくると思う。
ということは、個体発生を制御する機構そのものに必然的な意味があろうはずもなく
ただ、偶然にその機構を採択してかたちを作り、それが残って来たに過ぎない。
こう考えると、相同遺伝子を指標に祖先型の器官や細胞などを追いかけることが
本当に正しいのか疑問に感じてくるのである。
しかし、この疑問を口にするとわりと痛い目に遭うので黙っている。
ここに書こうと頑張っているもののまったく書ききれない内容に、
脊椎動物の誕生と初期胚の細胞数の問題がある。
脊椎動物を規定すると考えられる脊索前板・神経堤・プラコードの成立を見ると
それら(の祖先)が原索動物には存在しないと思わざるを得ないのだが、
しかし、多くの人はそうは考えていないようだ。
私は発生学はおろか生物学もよくわかりません。私の科学知識は高校・・中学生にも劣ると思いますし、非常に口下手(表現下手)でもありますから言いたいことが上手く伝わらない事が多々ありますので今回も中途半端になりそうです。
橋本さんの言う「進化をやりなおすと今と同じ生物ができない」私も同じです。それどころか今の地球もできるのかどうか・・・太陽から遠くなく近くなく水が液体で有ること、月の存在(よくわからないけど、月の引力も生命の進化になにか関係してると思う)恐竜が滅んだとされる隕石も落ちてこなかったら今と違う生物が進化&繁栄しているわけで、宇宙は広いので太陽系そっくりの月もあって木星なども有る地球と瓜二つの惑星が有っても今の地峡と何かが違う進化をしていたとおもいます。
ちなみにやっとパソコン買いました。携帯より見やすいですね。まだまだ使いこなせないですけど。
私の文章は長いので、携帯の画面よりは見やすくなったのではないでしょうか???もっと簡潔に要点だけをまとめた文章が書ければ良いのですが、日本語の作文能力に大きな欠陥があるもので・・・。
以前のコラムに「細胞数の爆発的な増加と胚誘導」のお話がありましたが、発生のプロセスそのものは、「現状況を次につなげていくための選択の連続」という「偶然の積み重ね」なのでしょうが、それが「個体発生」という結果につながった時点で、発生のプロセスに見られる偶然性が捨象され必然的な解釈が施されてしまうのかなと思ってしまいました。
つまり個体にしろ系統にしろ「発生」のプロセスが必然的な視点で捉えられがちな背景には、一つには発生の結果としての「存在」を起点(前提)とした場合、発生プロセスを逆行していまい、そこにヒトの思考の癖として必然的な因果関係を見出してしまいがちなこと、もう一つには発生に至らなかった場合、存在しないがゆえに考察の対象にはなり得ず、結果的に発生のプロセスがもつ偶然性が見落とされる、という「二重の落とし穴」みたいなものがあるような気がしました。
ゆぐちさんのおっしゃる通りだと思います。
個体発生も、その現象によっては機械論的思考もできると思いますが、現象によっては機械論的説明では暗礁に乗り上げることもあろうかと思っています。ただ、系統発生と個体発生の文脈から申し上げれば、現在エボデボという考え方がひとつの主流を作っていると思いますが、この視点に問題が潜んでいるかもしれないと思うのです。エボデボとは、進化(エボリューション)と発生(デベロップメント)を合わせた言葉で、文字通りゲノムを切り口にして進化論的視点から発生を考え、発生論的枠組みで進化を見ようとする取り組みのことです。この場合に、どうしても進化の連続性から発生を見る傾向が強くなり、そうするとその連続性に「必然性」を暗黙(無意識)のうちに取り入れてしまう訳です。だから、ある生きものの○○という遺伝子と相同な遺伝子を発現する器官は相同な器官であるという議論が当然のようになされる。たとえば魚とカエルのように系統的に近い生きものであれば相同遺伝子が必ずしも相同な場所で発現していないことは簡単に分かるのですが、形態的に類似性の低い生きもの同士を比較する場合には、相同遺伝子の発現領域という切り口しか無くなる。だから、脊椎動物を定義するともいわれる神経提細胞の祖先を、その細胞が発現する特異的遺伝子を発現するという意味だけで原索動物のホヤに求めようと試みる。同じ議論は、その形成に必須の遺伝子が相同だから昆虫の眼と脊椎動物の眼を「相同」だというトンデモ議論すらまかり通る訳です。この問題点のひとつにはやはり系統発生も必然であるという思考が底辺にあり、そこに誰も異論を挟まない(というか気付いてない)からだろうと思います。このような人たちも、ちゃんと議論すれば「進化は偶然である」ということは当然理解しているはずですが、どうもそれが発生の議論の時に抜け落ちると言うか、発生の文脈には(生理的?直感的?に)取り込めないのではないのでしょうか??
「個体発生過程を経ることによってゲノムに内部淘汰をかける。だから、個体発生はゲノムを洗練し維持する過程とも言える。逆にすでに内部淘汰のかかったゲノムが環境の変化に適応し、ゲノム自身も変化する過程が系統発生である」ってのはいかがですか???
個体発生と系統発生の違いが今ひとつよくわからなかったのですが、橋本さんの手にかかると、両者の違いはもとより、ゲノム自身の性格までもこのように巧みに表現できるのかとまたしても感心しています!!
それと今回のコラムを読んで、橋本さんが発生過程を追う作業を「泥臭い」と形容されていた意味が何となくわかりました。
朝晩はまだ肌寒いですが、裏山で鶯が盛んにさえずっていて春の訪れを感じます。暖かい日差しのなか、桜の木の下で橋本さんのお話が聞けたら楽しいんでしょうね。
ゆぐちさん、半ば冗談で書いてるくだりですので、あまり褒めないでください。おそらく私よりも専門の方も見ていらっしゃるだろうに、恥ずかしすぎます。