科学することとは (後編)

発見の驚きが科学の楽しさだと言われることがあるが、新しい事実の発見自体に「驚き」はあるかもしれないが、それは科学の驚きではない。いままで触れたこともない考え方(論理体系)に出会った時の驚きこそが科学的な驚きだ。すべての事実は目の前にずっと存在していた。それまで常識だと思っていたモノが、事実自体を変える事なく、その並べ方や互いの関係性をほんの少し変えて見ることで全体のかたちが一変する、これが科学の驚きである。少なくとも橋本はそう考えてきた。

理科離れと言われて久しいが、理科離れではなく「論理離れ」だと思っている。「これがこうだからこれはこう」という基本的な論理の構築の方法が教えられず、科学が面白いと思えるはずがない。基本的な論理は言語に依存する。だからこそ、小学校ではしっかり国語を教えなければならないと感じる。それがなされないから論理的思考が身に付かない。国語の授業数を増やせと言うのではない。すべきことは表現する技術を身につけてもらうこと、すなわち作文技術を教えることだろう。わかりやすい綺麗な日本語を書くことに論理立った思考が不可欠であるのは論を俟たない。わかり易い文章とはきわめて論理的であるはずで、逆に非論理的な文章がわかりやすいはずがない。すなわち、論理的に考える力が身に付かなければ綺麗な表現などできるわけもないのだ。わかりやすい日本語を書く技術を高めることは論理力を高めることに他ならないのである。

子供たちに対して作文の授業を橋本がするわけにはさすがにいかないだろうが、高校生以上くらいを対象にして、論理的なものの捉え方について対話することはできると思う。実験結果(過去の事実)を提示して、そこから論理的に物事を考えてもらうこともできる。ある規則に載せて事実を並べるとひとつの論理的な仮説が生まれる。その仮説が正しい(あるいは間違えている)ことを検証するためにどのような実験を考えるべきか考える。その実験の結果を、現行の仮説に照らして整合性が取れるのか、取れないとすればなぜ取れないのかについて考える。時には現行の仮説を捨て、過去の事実と新しい結果を同じ次元に並べて新しい論理の構築が必要かもしれない。この繰り返しが科学の方法論だし、これが論理的思考のきわめてシンプルなかたちではないだろうか?論理的な考え方を知っていただく活動は、中途半端に知識を押し付けるよりもはるかにBRHの存在意義に見合っていると感じるのだ。そして、これこそが橋本が常に目的として構造している根源である。「考える会」もそうだし、レクチャーや講義でも決して一方通行にはしないつもりでいる。