科学することとは (前編)
「西洋哲学の輸入と解説を生業とし、自らの頭で考えることを禁じた哲学はもはや哲学ではない」「それは哲学者の怠慢である」と梅原猛は説いた。哲学することとは、自分の頭で何かを徹底的に考えることであって他人の哲学を輸入し解説することではないのだ。科学も同じことで、ただただ決まった考え方や技法を用いて「研究」と称することに毎日を費やし、世界と競争をしているなどと戯けた価値観を見いだすことに意味などあろうはずもない。額に汗をして一心に考え続けることの重要性こそが人類の英知ではないのか?
新しい知識や知見に意味付けするよりも、過去の歴史をも振り返って、これまで蓄積されてきた知見の中に潜在する新しい論理を追い求めることが「知の発見」であろう。同じ事実であっても、互いの関係性を変えればまったく新しいかたちが浮かび上がる。その瞬間の驚きが科学の醍醐味だろうし、要素同士の関係性こそが論理であり、論理がなければ「知識(要素)の羅列」に終わるだけの話である。それは科学ではないのだ。
「事実」を一定の規則に従って並べたものが論理である。論理が存在するから意味が存在する。その論理を求める方法論のひとつが科学である。いかに論理立って思考を構築できるのかが科学の本質であり、論理の組み立て方を知らずに知識を暗記することが愚かなだけではなく、それがこれからの科学にとって害毒であるということにそろそろ気付くべきだろう。