発生学者
昨日も少し触れましたが、発生学者の傾向について書いてみます。
私は元々が生化学に近い分子生物学を勉強していました。
タンパク質を自分で精製し、DNAやRNAと試験管の中で混ぜ合わせて
その機能を解析するという研究に従事して来た訳です。
その結果、「分子で生きものが分かるはずない!」となってしまいました。
だから、生きものを機械論的に見るのを良しとしません。
遺伝子で生きものを語る人を見ると「バカだなあ」と感じます。
もちろん全ては私の極めて個人的で偏った価値観に依るものであって
これが絶対的に正しいなどと主張するつもりなど毛頭ありませんが
個人的にはこう思って(信じて)いる訳です。
実は名古屋大学(もうすぐ阪大)の近藤滋さんも、
元々はバリバリの分子生物学者だったのに
いまでは数学で発生学を語ろうとしています。
彼も私と同じように「分子で発生は語れない」と言います。
私とは違って、発生の現象から研究に入った人たちがいます。
遺伝子も分子も触らずに、ひたすら生きものを見て来た研究者です。
この手の研究者には「生きもの=機械」論的な考え方をする人が多いと感じます。
発生の現象に関わる原因物質の探索という
極めて「分子生物学的」な思考法を持っている人が多いように思います。
このような違いを一般論化できるとは思いませんが
でもこのような傾向があるのは、少なくとも私の回りでは事実だと思っています。
なんだか面白いなあって感じませんか?
もう一つまったく異なる研究者たちも存在するように私には思えます。
近藤滋さんや私は、発生とは全く違う分野で分子の研究をしてから
発生学と呼ばれる分野に入って来た訳ですが、
最初から分子の洗礼を受けて発生の研究に入って来た若い人たちの中には
発生現象もまた遺伝子で何でも説明できると信念を持っているような人が多いみたいです。
この手の人たちは、極論すれば「ハエもヒトも同じ」的な思考をする人が多いと感じます。
ハエにもヒトにも相同な遺伝子が働いているのだから
発生の機構も当然同じであると考えるみたいです。
だから必然的に「網羅的な解析」を好む傾向にあると感じます。
分子が全て理解できたら生きものは完全に理解できると考える訳で、
「今はまだ分子が完全に理解されていないから生きものは理解できていない」
という方向の議論になる訳です。
「分子が全て分かっても、その上位にある法則が理解されない限り生きものは分からない」
「カエルはカエル、イモリはイモリ。多様性には意味があり、ハエとヒトが同じであるはずなどない」
との立場を私は取りますので
話していても互いにまったく相手のことが理解できないのです。
巨大な「バカの壁」が存在することになるのでしょう。
もちろんこのどちらが正しいかなどまったく分かりません。
生きものが多様なように研究者も多様で構わないし、
そうだからこそ面白いってことなのだろうと思います。
時代の流れとして遺伝子や分子と関わり、それを習得したうえで橋本さんや近藤先生のように「分子で生きものがわかるはずがない!」と今までの考えを変えることはものすごく勇気がいることだと思います。だから「遺伝子や分子を追究したら生きものがわかる」という立場の人の中には心底そのように思っている人のほかに、橋本さんのような思いを抱きながらもなかなか今の立場を変えられずにいる人もいるのかなと思ってしまいました(まして分子生物学が主流の時代にあっては…)。
それにしても遺伝子も分子も触らずひたすら生きものを見てきた研究者に極めて「分子生物学的」な思考法を持っている人が多いというのはとても意外です!素人からするとこういう研究姿勢こそ「分子で生きものがわかるはずがない!」という結論に行き着くような気がするのですが…。やはりそれだけ「生きもの」を捉えることは難しということでしょうか。
今までの考えを変えたのではないと思っています。むしろ分子ばかり見て来た人の必然として「分子で生きものが分かるはずない」となったように感じてなりません。だから「勇気」などは微塵もなく、結果としては「無謀なことを言い過ぎているなあ」って気もしないことはないけど、「研究は(自分が)面白くなくてはならない」との主義の元に今の自分ができています。ただ、もちろんそう感じない人もいらっしゃる訳ですし、それはそれで構わないんじゃないかな。私も、何かの瞬間に分子へと変節することもあるかもしれませんしね。
ただ、近藤さんみたいにテイストの合う人と飲むとすごく楽しいですね。以前に東大の某研究者から「同じ星の住人に思いがけなく会えた」といわれたことがありますが、私の言葉は分子至上主義の研究者にはまったく理解されないのは事実なので、そこで自説を主張するのも面倒だし、「通じないなあ」と思ったら話題を変えますから、何の説明もなく言葉を話せ共感し合える人の存在はすごく貴重です。今西錦司の「住み分け」でしょうかね??(これは冗談です)。
ハエが分かってヒトがわかる、ということがおかしいのは、確かにおっしゃる通りです。
でも、ハエの持つある発生機構が、ヒトのある一コマを理解するのには使えた、というのはあると僕は思います。
生き物である以上、収斂的に一緒の機構を利用していたっておかしくないからです。
それが「生き物とは何か」を知ることができるかどうか、というとまた違ってくると思います。
それが進化的に何か意味があるかどうかという議論をしているわけではありません。
ハエで他の生き物のゲノム、全体像を理解することはどだい無理です。
金山さんは「どだい無理」とおっしゃるけれど、もしかしたらハエでヒトのすべてが分かるのかもしれないし、金山さんと同様に私も「絶対に分かるはずは無い!」と思っていますけど、それも正しいかどうかは分からないことですからね。分子を網羅的に解析したら生きものが分かるのかもしれないし・・・そうだったらかなり悔しいですけどね。とにかく自分の信じる方向へと進むしかないようです。だから研究は面白いし、考え方も人それぞれいろいろあって面白いですよね。
しかし、今日は寒いなあ。
橋本さん、ありがとうございます。
なんかこう、いつも歯がゆい感じがするのは僕だけですか?
それこそこの違いは、俺は分子生物学!の立場の人と近藤さんのような立場の人は、
どの階層性を研究するかの違い、という風にとらえているんですけれども、
橋本さんは、両方の立場を理解されているんじゃないんですか。
中間のところにいらっしゃる風に僕は受け止めています。
立ち位置の違いを理解すれば、分子分子している方面の人も理解できると思うんですけど、
その話が噛み合なくなるのはやっぱり目指しているところがちがうからでしょうか。
僕はそれはなんだかもったいない、と思ってしまうのです。
あと、北大の方で研究されている方で、この階層性をつなげていきたいんだよね〜といって研究している人が
いまして、結構面白い方でした。
私は中間なのかな?違うとは思ってますが・・・。まあ、明確な分子分子の人とは一線を画しているつもりです。ただし、明確な反分子の人とも相容れないのも事実です。だから、この両極端を見れば私は「中間」なのかもしれません。「分子分子の人」とは「分子至上主義者」あるいは「分子が全てと信じる人」と私は考えており、このような人たちとは一線を画するということであって、分子の手法を用いながらもその限界を自覚している研究者とはむしろ同じ場所にいると思っています。1970年代から「構造主義生物学」の議論が沸き起こっては消えを定期的に繰り返してきましたが、その最大の問題は、彼らが分子生物学に敵対して議論を繰り広げてきたことであると私には感じられます。だから、いま私たちはそれだけは避けなければならない。その意味で「中間」を目指そうとしているのは事実だろうと思います(でもいまは中間ではないのですよね、残念ながら)。近藤滋さんは分子の手法をあえて捨てましたが分子に敵対はしていません。その証拠に、分子の技術で彼の主張を実証しようとしていますよね。私も、分子に敵対しているつもりは全くありません。ただし、分子で全て分かるという議論には組しないだけの話です。
ただ、若い人に申し上げたいことは、とにかく他人の意見を否定しないで、ひとまずは無批判に受け入れる努力をしてほしいことです(「橋本、お前にそれができているのか!!」と言われたら黙り込むしかないのですが、猛省も込めての言葉とお考えください)。その瞬間の自分の意見と相容れないからと否定するのは愚かなことが多いと思いますし、さらに相容れない意見を反駁してつぶしてしまう、あるいは自説だけを押し通してしまうことは己にとって百害あって一利もないと思っています。経験を積んだら考え方が変わることなんかいくらでもある訳で、一度に聞いた時には全く肯定できなかった意見でも、時間をおいて二度目に聞いたら賛同できることは生きていれば何度でも経験することですから。だから、議論で自己主張ばかりして、相手の意見を聞こうとしない人を見ると「損をしているなあ」って思いますし、そのような人との議論は私なら可能な限り逃げます。もし議論に捕まっても、建設的な議論にならないのだから、自分の意見を言わず「はいはい、仰せの通りでございます」って態度を取ってしまう。よくないのは分かっていますが、緊急避難的措置だと自分では思っています。だって、私は議論自体は嫌いではないのですからね。
なんか、よくわからないですね。また、飲みながら話しましょう。