影響を受けた考え方

大学院修士課程を終えたら博士課程では別の研究室に移ろうかと思っていました。今の研究室に不満があったわけではありませんが、違うことをやってみたくなったのです。修士課程で入った研究室ではバクテリオファージの分子遺伝学をやっていました。研究としてはものすごく楽しくて、毎日12〜15時間くらいは研究室にいたと思います。遺伝子をクローニングし、タンパク質を精製して試験管内で生化学の実験をしていました。その時に漠然と、「分子だけをみていて何がわかるのだろう」という不安感を持ち始めていました。そこで、いくつかの研究室の見学に行きました。そのうちの一つが国立遺伝学研究所の杉山勉先生の部屋でした。

杉山先生は、アメリカで学位を取得されそのままアメリカで研究を続けられてきました。Qβと呼ばれるRNAファージの遺伝子発現調節の研究です。そして、世界で初めて翻訳調節という現象を見出されました。その時の分子生物学で世界のトップを走っておられた方です。まだまだ分子生物学が遅れていた日本で、世界の技術を取り入れようと杉山先生を遺伝研の教授として迎えました。遺伝研に着任された杉山先生は、なんと分子生物学を辞め、強い再生力を持つヒドラと呼ばれる生き物の移植実験を始めました。性質の異なるヒドラをたくさん集めてきて、互いに移植するという実験です。その時の杉山先生のお言葉が、「アメリカでトップを取ったけれど、ライバルの研究室が同じデータを3ヶ月後に出しているのを知った。それだったら何も自分がその研究をしなくたってライバルたちに任せておけば良い。自分がいなければ五十年は遅れていたと言われる研究をしたい。それは発生学だ」でした。血気盛んな20代前半の若者の心を動かすには十分でしたし、この言葉は研究を終えようとしている今でも橋本の中軸に存在しています。ただ、この言葉を橋本なりに解釈した方向がマズかったのかもしれません。「最先端」という言葉、特に新しい技術に対してネガティブなイメージを持つようになりました。「世界と競争している」という言葉に白けるようになりました。「競争相手がやってくれるんやったらもっと他のことをすれば良いやんか」と考えてしまうのです。それは今でも同じで、ここが、偉い先生方からずっとお叱りを受け続けているところです。研究員紹介にも書いていますが、「遺伝子が嫌いな研究者」の烙印を押されているのもこういったバックグランドのおかげということになります。