哲学?

ゲノムは哲学である!などと普通の人には意味不明なことを普段からわめいていますが、

この哲学というものについて議論できる能力があろうはずも無く、

では、一体なにが言いたいのか?といつも首を傾げられます。

 

で、ふと思ったのですが、この「哲学」という用語があまりに便利なので用いているのですが、

逆に、便利がゆえに人によって哲学をどう考えるのかが異なるわけで、

「ここをどうしたものだろう?」と酔って最近ぼーっと考えたりするのです。

 

で、自分が思う「哲学」とは一体なんなのか?ですが、

これは間違いなくphilosophyではありません。

言ってみればphysicsに対するmetaphysicsでしょう。

あるいは唯物論に相反する思想と言ってもいいかもしれません。

もちろん本家のmetaphysicsの定義とは違っているのかもしれませんが、

でも、physicsに対する概念という意味で用いている「雰囲気」はお分かりいただけるでしょうか?

 

これを「情報」とする方もいらっしゃるでしょうが、

私にはゲノムを情報として捉えたくない凝り固まった「信念」みたいなものがあります。

「情報を自己複製する情報が詰まったものがゲノム」みたいな説明ってトートロジーでしょ?

で、西洋科学的な思考を越えた先にある何かがゲノムの理解には重要であり、

それを哲学という用語を用いて短絡的に表現してしまった。

まあそれだけです。

 

これを、哲学(いわゆるphilosophy)一般に拡張できるかどうか、それはまったく分かりません。

アインシュタインが、まず特殊相対性理論を公表し、次に一般相対性理論に至ったように、

「一般」化は実際にかなり難しそうですからね。

でも、「誰々の考えでは」のように哲学の知識の羅列であってはならないとは思います。

たとえばカントやデカルト・アインシュタインにソシュールなどなど何でもいいのですが

とにかくこの手の固有名詞が「イメージを画一化し固定化している」と

フランスの言語学者アリヴェは指摘しているようですが、

重要なことはこの「固有名詞」を脱構築することだろうと思うのです。

その方法論が哲学であって、硬直した固有名詞の羅列や整理ではないということ。

額に汗をし、とにかく考え続けることこそが哲学だと、

かの西田幾多郎もおっしゃっていたそうですから、

カントがどうだのデカルトがどうだのという哲学知識の解説では芸がないでしょうね。

と偉そうなことを言うものの、固有名詞で画一化したイメージを使うって楽ですから

ついついやっちゃうんですよね・・・・・・・。

 

で、先日の「情報」の続きはまた後日。

 

さて、今日はWatchさんと寿司食いながら進化論談義です。