絶対!

私は性格的にあまり物事を言い切りません。

これが学生の指導にとって良くないこともあります。

強く「こうだ」と言い切った方が良いと分かっていても、

それ以外の可能性もすべて説明した上であらゆる質問を受付、

最後は学生に決めてもらうというやり方を続けています。

これにピッタリ合う学生もいます。

そういう学生はかなり伸びます。

でも、いろいろいわれて頭の中でまとまらず、

ゴチャゴチャのまま、ひどいときには複数の知識が互いに混ざって、

明らかな間違いを頭に入れてしまいます。

こんなときはあとが大変なのですが・・・・。

 

話は変わって、世界の歴史の中で民族同士の殺し合いってよくあるように思います。

民族の対立って宗教対立が根にあったりもするようですが、

日本では民族間の殺し合いって普通に考えてみても思いだしません。

まあ、私の乏しい知識なのでいろいろとあったのかもしれませんが、

でもなんか諸外国のとは質が根本的に違うように思う。

本欄でも何度か書いたし、ことば論やかたち論にも書きましたが、

日本人の根本思想に「八百万の神様」がいらっしゃることが大きいように思います。

(これを私は言語に関連づけて議論したりしていますが、

ここではまあそちらには行かないつもりです)。

私は無神論者なので(仏教は哲学大系であって宗教ではないと思っています)

実際のところはよくわかりませんが、

日本人がキリスト教を信じたからと言っても

この「八百万の神」のような思想はもち続けているような気がします。

お米の中にも神様がいらっしゃるという「おかげさま」の思想は、

日本語を話し日本の文化のもとで育てられた日本人なら

どんな宗教を信じようが、この日本人の美徳は心のどこかにもち続けているように思うのです。

これは唯一絶対の神の存在の問題を越えて、

その民族固有の価値観や思考方法に根付いている問題のような気がします。

 

それに対して、唯一絶対の神を仰ぐ諸外国では、

大ざっぱに言ってしまえば「二項対立」「善か悪か」の問題にしてしまう

「これが絶対正しい」というものが個人の頭の中にあり、

それ以外を許容しないという思考回路があるのではないか?

そんな風に感じてしまうのです。

もちろんこれは是非の問題ではありません。

それこそどちらが正しくてどちらが間違えているという議論にする意味はない。

ただ、相手のことを尊重し、自分も間違えている可能性を考慮して、

話し合いを進めるというのは日本人の美徳だったでしょう。

あるいは、それは庶民の美徳であって、

日本人でも権力に近い人間はそうではなかったのかもしれませんが、

そうは思いたくない。

 

だからなのか,私を含めて日本人には「これが絶対に正しい」と言い切る思想に対して

なんとも言えない気持ちの悪さ、あるいは不快感を覚える傾向があると感じます。

何となくですが、日本的に何かを考えるときに、

絶対的な正義を考えることが少ないように思うし、私は少なくともそうです。

自分の言い分が正しい、だからそれと異なる言い分はすべて間違えているという思想は、

おそらく日本人には馴染まない感覚の論理なのだろうと思う。

しかし、国際社会ではこの論理の方が優勢であり、

「正しいことをしていればいつかは分かってくれる」という感覚で

我が国はいつも損をしてきたのかもしれません。

 

まあ、この意味においては国家を率いる方々には

そのような思考をお持ちの方々との交渉力を技術として身につけていただき、

日本の正しさを世界に理解してもらえるように頑張っていただきたいのですが、

ここで私が懸念するのは、

上記を踏まえて「だから日本の思考は間違えている」という

短絡的かつ自虐的な価値観が生じることです。

他人を尊重し思いやる考え方、

すべてのことに「おかげさま」と感謝できる思考は決して日本人の欠点ではなく、

我が日本が誇ってしかるべき美徳だと思いますし、

この意味において日本人は世界の何周も先に進んでいる優れた民族であると感じます。

 

敗戦後の数十年間,日本は欧米文化の前に自虐的な行き方を強いられ、

それが自虐的とは思わない、当然だと感じるように教育されてきました。

しかし、ディベート能力が高く評価され、

相手を議論で打ち負かすことが正しいとされる人間教育は、

根本のどこかで間違えているとしか私には思えません。

ディベート力や交渉力は技術であって思想ではないし、

そんな思想はもつべきではないと思います。

もう一度、日本人の美徳を思いだしたい

それを実践できるようになりたいと切に感じます。

 

まあ、宗教感から歴史観までむちゃくちゃな内容だったと思います。

不愉快になられた方、ごめんなさい。