概念

先日、軸性について議論をしている時にふと思ったことである。

カエルやトリでの組織の動き、具体的には原腸形成運動、について話している時に、

カエルなどではすでに軸性を胚が持っているので動く方向が定まるが、

マウスではこの時期に動くことと同時に軸性を作らなければならないから・・・・

みたいな議論になったのである。

で、「軸性って何?」と思った。

これまではカエルの動植物軸なんて概念はそれほど抵抗無く受け入れていたはずなのだが、

では、「軸性を作る」とか「軸性を獲得する」って具体的にどういうことなのだろう?

それは分泌因子の濃度勾配の形成や獲得という言葉で語られうるものなのだろうか?

あるいは何かの物質の極性で話して構わないのだろうか?

もちろんそれで構わない場合もあろうが、

でもそれでなければならないわけではないだろう。

ということは、軸性というものを獲得させるために

何らかの分子を戦略として利用したに過ぎないことにならないだろうか?

こう考えることから思考は「概念って何?」となった。

 

特に初期発生を見ていると概念的な考え方が頻出するように思う。

それを分子で語ることが近代的な発生生物学なのだろうとさえ思う。

でも、たとえ分子で見せられても、それがその概念を示しているとは到底思えない。

あくまでも概念を具現化した何かであるに過ぎないと感じる。

そして、またまた思考はあらぬ方向に飛んで行く。

「この概念というもの自体がゲノムのなかに何らかの形で書き込まれているのだろうなあ」と。

 

分子で語るのはおそらくかなり楽である。

その分子を見せておけば事は足るからだ。

でも、その分子=機械論的な語りで発生現象を表現できるかといえば、

将来的にすべての分子が分かれば語り尽くせるといわれるかもしれないが、

少なくとも現時点では「まったく何も表現できていない」と私には思える。

 

概念がゲノムに書かれているとした場合に、

どのような形式で書き込まれているのだろう?

などと考えるより先に「で、概念って何だ?」って疑問が当然のように沸き起こる。

これは「かたち論」の最初に「かたちって何?」と問うたことと同様に、

本来、明確に定義されているべき基本的「概念」がまじめに考えられてこなかったように感じる。

ここまで夢想してふと気付いたのだが、

たしか19〜20世紀の哲学のひとつの問題として概念を考えるということがあった。

すなわち、概念の「概念(かたち)」を思想的に明確にしようとする試みと受け止めても良いのではないか。

 

これまで発生現象を見てきて、

ゲノムに書かれている概念的なもやもやしたかたちが生物のかたちとして具現化していると思っていた。

それはそれで正しいとは思うのだが、

でも、発生現象自体にもかなりもやもやした何かがそこここに存在する。

この辺りにゲノムと発生との「相同性」が見て取れるのだろうか?

発生現象のもやもやした何かとは、

おそらく分子で示されてもまったく納得いかない説明あたりに隠れているように思う。

それは、ことばではうまく言い表せない「概念的」ななにかなのだろうと思う。

そして、この20年ほどの私は、

この「概念的ななにか」のふちをぐるぐる回ってきただけなのかもしれない。

 

というわけで、「概念とはなにか」について考えましょうか。