形の収斂

自然淘汰圧は形ではなく働きにかかる。

では、生き物の形が似ているのは、すべての形に何らかの機能があることを指すのか?

論理的に考えると淘汰圧は何らかの機能にしかかかり得ない。

ダーウィンフィンチのくちばしだってそうだし、

擬態なんてのもそのように理解されてきている。

で、問題は生きもののかたちというもの自体に意味づけができるのか?である。

この意味づけとは当然「なんらかの機能」を与えるという意味である。

というか、意味という言葉自体に「役割の付加」が潜在しているから

かたちに意味があるのか?は立派に命題となりうるだろう。

 

たとえば脊椎動物は一貫して相同なかたちを有する。

相同な構造が相対的に比較可能な場所に並んでいる。

これに機能的な意味が存在するのか?とかんがえると

それは無いだろうと普通に思うはずだ。

では、脊椎動物のかたちがなぜ比較可能なまでに保存されているのかであるが、

もちろんそのかたちはゲノムに書かれているわけで、

ゲノムのかたちが保存されている意味を問うこととなる。

まあ、これはおそらく共通祖先から進化してきたことを理由として問題は無かろうが、

でも、機能的拘束という意味での淘汰圧がかからなければ

どのような構造も変化する傾向を持つだろう。

だから、かたちに機能的意味を見いだせるのか?という問題になるわけだ。

 

で、ゴチャゴチャかくまでもなく、すべてのかたちに機能的な意味を見いだすのは

屁理屈をこねてもなかなか困難である。

魚とカエルの頭の位置や構造の並びが保存されているのに

そこにどのような淘汰圧がかかるかと考えても答えは見つからないからだ。

 

で、これを説明するのが内部淘汰の概念でしかないと思う。

閉じた体系としてのゲノムのかたちが

一定の形へと収斂せざるを得ない見えない拘束を

生きものに与えているとしか言えない。

それがたとえばHOXコードだろう。

HOXコードなるものは自然淘汰圧を直接受ける対象ではあり得ない。

むしろこれが守られなければ生きもののかたちができ上がらないという意味合いのものだ。

 

というような議論で内部淘汰と外部淘汰を話すのも面白いかもしれない。

要は淘汰圧が形にかかるか働きにかかるかの違いであるわけだ。