安心と安全
原発の報道が頻繁になされている。
大飯原発が安全だとか安全ではないとか騒がしく議論されている。
しかし、これらの議論に少なからず抵抗がある。
安全とはあくまでも科学的に論理的に議論されるべきことばだ。
そして、その前提として「絶対的安全」はあり得ないという事実がある。
ある範囲までは安全でも、その範囲を超えたら安全ではない。
そんなことは当然の話である。
これに対して安心とはあくまでも感情の話だ。
だから、低い安全性であっても安心だという人もいるだろうし、
高度な安全性を謳っていてもそれを不安視する人もいるだろう。
で、結局は現時点の対策でどのレベルまでの危機に対応できるのか、
どのレベルを超えたら対応できないのか、
また、現在あらたに計画されている対策が実現した時に、
どのレベルの危機に対応できるようになるのか、
その危機が訪れる確率はどのくらいなのか、
ハードが制御不能になった時に、
どのような回避策があるのか、
その回避策はどれだけ有効なのか?
その回避策自体が損傷する可能性はどうなのか、
などなどさまざまな視点から問題点を徹底的に
しかも科学的に洗い出して国民に知らしめることがまず一義的に求められることだろう。
そして、その科学的根拠を元に
安心できるかできないかは国民の判断に委ねるというのが筋だろう。
科学的根拠というのも単純ではない。
学者によって同じデータから正反対の結論を導く。
ここにも客観性は存在しない。
だから御用学者なんてのの存在意義が出てくる。
その場合には両極端を取り入れるのか、
両極端を取り除いて議論をするかしかないだろうが、
どちらにしても生データとその解釈を「科学的」に提示するべきであり、
科学的根拠を示さず「安全だ」といわれても安心できるはずがないだろう?
このような判断はあくまでも何か別のものとの天秤にかけられるものだ。
天秤にかける相手が無いのなら低い危険性であっても採択されるべきではないだろうが、
実際には電力の安定供給というものが片側の天秤に乗せられる。
その背景には経済的理由もあれば利便性の問題もあるだろう。
それらを踏まえて、科学的に導き出された安全性(危険性)と天秤にかけて
どちらがより優先されるのかを問う。
もちろん、この判断基準は人により異なるだろうから、
最終的には多数決的な判断になるのはある程度は仕方ないだろう。
津波の想定を100メートルとするのは誰が見ても異常だろうが、
では、10メートルなら不安視する人もいるだろうし、
11メートルなら、12メートルなら・・・・と
想定値が上がるごとに安心と感じる人が増えるだろう。
しかし、100メートルの想定値でも不安だと感じる人もいるかもしれない。
こういった場合には民主的手段に頼る他にはないと感じるのだが、
何にしても、判断する材料が与えられない状況では判断できない。
で、いまの政府のやり方は安心と安全を(おそらく意図的に)一緒くたにしている。
住民の合意あるいは意志というのは「安心」の部類に属する。
それをして「安全」だとあたかも言わんばかりの言動が多いと感じる。
地元の定義の問題もさることながら、
とにかくいかにしてごまかせないかに苦心しているように思えてならない。
安全と危険の境界を科学的に見せた上で、
それを安心だとするか不安だとするかを問うことなしに
どうして先に進めるのだろうか?
福島の事故はまだ続いている。
しかし、一部の人の間ではすでに収束したこととなり、
それも「喉元を過ぎて」しまったのだろうか?