講演
先日、研究館でレクチャーをした。
お客様の中に大阪府教育センターの方がいらっしゃった。
昨日、その方から講演のご依頼をいただいた。
そこまではまあ普通のことなのだが、
そのご依頼内容を聞いてふたつ驚いた。
ひとつは時期だ。
なんと7月30日。
この日のご都合は?と聞かれても答えようがない。
まあ、よほどのことがない限り先約が優先されるので
早くに予約されるのは懸命だとは思うのだが、
にしても半年先とは・・・・・・。
ふたつ目は講演方法。
なんと時間無制限というご希望である。
そういえばレクチャーでは2時開始のところを1時40分ころに会場入りして、
そこにいらっしゃるお客様とお話をしていたっけ。
「最近読んだ哲学書で面白かったのは何ですか?」って
生命誌としては奇妙奇天烈なご質問をいただいたり
(実際のところこれこそが「the生命誌」と個人的には思うのだが)、
「エボデボの陥った罠とはどういうことか?」という
どう考えてもこの欄の読者だろうというご質問をいただいたりしていた
(そういえば、このご質問に答えてなかったことにいま気付いた)。
そして2時から始まったレクチャーが終わってみれば5時、
閉館時間をとっくに過ぎていた。
もちろん私の話はいつも通り長い。
ただ、多くのお客様はそれを覚悟でお越し下さっているようだし、
一部のお客様はそれを期待してお越し下さっているようにも感じる。
でも、私の話が長かっただけが原因ではない。
なんとも有意義なご質問をたくさんいただき、
アンケートには「質疑応答で問題点が明確になった」とすら書かれていたくらいだ。
で、府立教育センターの方も、これの再現をお望みのことだろう。
私は一方向の話を好まない。
意識はしていないが聴衆の方からよく言われることに、
「私はこう思うけど、皆さんはいかがですか?」みたいな話し方を私はするということがある。
それは間違いなく私の基本的な考え方が表れているのだろう。
どの瞬間にも私が間違えている可能性を意識しているのだ。
だから言い切ることはまずできない。
事実を上げ橋本流に解釈をする。
だから、同じ事実を見ても異なる人が異なる解釈をすることはあり得る。
もし異なる解釈が同時に出てきたら、
それを確かめるためにどのような実験や思考が必要かを考える。
これが議論だろう。
そして、いつも私が言うことだが、
理科離れとは論理離れであり、
このような思考習慣が先生にも児童生徒にもついていないから、
理科ってただ覚えるだけの難しい学問(教科)になってしまうのだろう。
そりゃ、理屈を知ることなく公式を覚えさせられたら理数系は面白くない。
それなら社会や国語を覚える方がはるかに楽だろう。
この点を改善しない限り絶対に理科離れなんてなくならないと思う。
講演の時に私がお客様と「対話」するのは、
それが絶対に面白いと信じているからだ。
「教えてあげる」ではまったくダメだと心から思っているからだ。
ひとつの出来事を一緒に楽しみましょうでないと面白くない。
一方的に与えられた知識は身に付かない。
私は、教科書とは真逆の話をする。
だから、高校生に聞かせたら混乱するのでは?と思っていた。
しかし現実には、教科書や授業ではややこしくてよくわからなかった原腸形成の話が、
私の話を聞いてすっと頭に入ってきたと言われることがある。
それは、表面的な問題ではなく、
原腸形成という現象が持っている生物学的な意義を理解したからなのだろう。
そこさえ理解していれば、体軸がどちらに動こうが本質的な問題ではない。
おそらく理科という教科はこの点を抜きにしては議論できないのだろうと思う。
なんにしても私は話すことが好きだ。
対話できることが嬉しい。
だから、このような集まりは季節ごとにあっても良いなあと思う。
時間制限がある一方通行でありきたりの講演ではなく、
ゆっくり語り合える時間は至福のひとときなのだ。