競争と公平

尼崎での列車の事故が起こった際に、

テレビ番組のコメンテータが「日本人は電車が遅れることを気にしすぎる」と言っていた。

さらに、「もっとおおらかになればこのような事故は防げただろう」とも言っていた。

しかし、そのような風潮があらわれた直後に交通問題の専門家から

「正確であることを越える安全はない」との指摘がなされた。

たしかに電車が正確に運行されるからこそ安全が担保されている。

だから、ここでの議論は「不正確でも構わない」というのではなく、

「正確に運行できないダイヤを作った会社の問題」として取り扱われるべきだろう。

 

こういうことを何となく考えていて違う問題へと連想した。

「公平」という考え方についてである。

公平と競争は、私が受けた教育では正反対の概念のように取り扱われてきたように思う。

その証拠なのか、学校では運動会で順位をつけないようになったと聞く。

まあこの問題も例え話なのか実際にそうだったのかは知らない。

「アメリカで濡れた猫を乾かすために電子レンジを使ったら猫が死んだ。

猫を乾かしてはいけないとは説明書に書かれていなかったから賠償しろ」と訴訟が起こり、

多額の賠償金支払い命令が下った」という話は有名であるが、

日本でPL法の導入前に弁護士団体がこの判例を探したらまったく見つからなかったから、

おそらくはPL法の概念をわかりやすく説明するために

誰かが例え話をしたのが広まっただけだろうと結論付けられたと聞いた。

これは、ダーウィンの進化論を説明するためにキリンの首の話がよく使われるが

これもダーウィンが言ったのではなくアメリカの教師が進化論を説明する例えとして

教科書に書いたものが広まっただけだというのに似ている。

話が大幅に横にそれたのだが、とにかく運動会で順位をつける競争をしなくなった、

あるいはみんな手をつないで一緒にゴールするという話が実話かどうかは私には分からない。

ただ、そういう話に象徴される教育環境であることは事実のようだ。

 

さて、先日以下の新聞記事を見た。

ハーバード大の教授が面白い指摘をしている。

「日本の学力による競争は平等であった」というのがそれだ。

続けて「その平等が、高度経済成長からバブルにかけての時期に大きく損なわれた」ともいう。

そしてその理由を「ゆとり教育」に帰結させている。

論点はこうである。

ある時期に教員や一部の知識人が競争を排除し始めた。

子供の教育に不安を感じた親は私立の中高一貫校や塾などで以前と同じ以上の勉強をさせた。

その結果、そのような余裕のある家庭の子供のみが一流大学に進学できることとなり、

貧しいが能力のある子供には学びたくても学べないという状態が定着した。

受験と家庭の経済力は等号で結ばれるようになった。

受験に必要な経済力を持つ家庭の子供だけが学歴をつけ社会的地位を有する傾向が強くなった。

結果として地位や貧富の格差が固定されることとなった。

公平な競争の結果として公平性が担保されていたのが以前の日本であり、

公平性を求めたゆとり教育の導入により公平性が失われ

格差の固定につながったという論理である。

 

異論もあろうが、重要な指摘だろうと私は思う。

教師は、ゆとり教育下で教科書にないことの指導を抑えられた。

それは、それ以上学びたい意志を持つ生徒の学習機会を奪ったと指摘されたことである。

そして、その「より高度な内容」の学習機会は裕福な家庭の子供にしか与えられなくなったということだ。

 

競争と公平という、少し前までは相反する概念のように思っていたことばが、

意外な結びつきをもって目の前にあらわれてきたことに変な興味を覚えているのだ。