理科教育

先日の新聞紙面に

政府は、「理科好き」の子どもを増やすため、

小中学校の実験や観察で使う顕微鏡や人体模型などの教材購入にあてる補助金を

大幅に増額する検討に入った。」とあった。

何度も書いているのだが、こういう付け焼き刃の方法論で理科好きが増えると思えない。

理科に対する興味とは好奇心からしか産まれないだろう。

好奇心とは不思議に思うことであり、その理由を知りたいと願うことである。

理由とはすなわち論理である。

ここに神様を登場させてはダメだ。

あくまでも論理的な説明で不思議を解き明かさなければならない。

何度も言うが理科教育とは論理教育であり、

理科離れとは論理離れ、理科嫌いとは論理嫌いなのである。

日本人は論理・議論と聞くと「理屈っぽい」と否定的に見る傾向が強いと感じる。

実際に私もそうであった。

しかし、理屈っぽい人が必ずしも論理的かというとそうではない。

なぜなら議論というものは相手の話を無批判に聞くところからしか始まらないからで、

「理屈っぽい」と批判される人の大多数は相手の意見を聞かず、

自己主張に終始する傾向があり、

その「自己主張」の手段が似非論理であるから、

「論理」→「理屈っぽい」と脳内で否定的に変換されるのだろう。

これはまた、日本人の美徳であるところの「相手のとの関係を重んじる」ことともつながる。

日本人は相手のことを気遣い思いやることで「和をもって尊し」の思想を実践している。

しかし屁理屈で自己主張するひとは相手の気持ちを考えず

自分だけの論理を振りかざして相手の領域にずけずけと踏み込んでゆく。

これに我々は免疫がないのだろう。

ただ、我々の周囲にもゆっくりと論理的に丁寧な話をする人はいたし、

そういう先生は生徒からも信頼されていたと思う。

 

ちょっと話が横にそれた。

私は、理科好きを増やすためにただただ物やお金を増やすことには反対である。

いや、決して悪いことではないのだから反対とは言い過ぎだろうな。

ただ、この方法論で理科好きが増えるとは決して思えないのだ。

学問としての理科も好奇心からなるものだと思う。

だから、先生自身が「面白い」と思う内容でなければ生徒が面白いとは思わない。

親が鉄道好きなら子供も鉄道好きになる傾向があるのは、

親が心から鉄道を面白いと感じているし、それを子供が肌で感じるからである。

 

私がセミナーやレクチャーをする時には

とにかく「おもろいでしょ?」って感じを伝える努力をしている。

感想に「橋本が楽しそうに話していた」というのをいただくが、

これは私にとっての最高の褒め言葉である。

とにかく楽しいということを、面白いということを共有したいと考えている。

そこからしか何も始まらないと思っているのだ。

それが私にどれだけできているのか分からないのだが、

とにかく小学校の理科教育は、理科が好きで仕方ないという先生に教えてもらうのが一番で、

理屈っぽくならない程度の論理で目の前の不思議を解明するのを子供に見せてあげることが

理科の本質であろうと思うのである。

その時には単なる知識の羅列ではいけない。

何が不思議なのか先生が見極めなければならない。

何でもかんでも「不思議」ってやるとダメだ。

目の前の現象の最も核となる不思議を「不思議だねえ」って子供に伝え、

本質を見る目を養ってもらわなければならないだろう。

それをどのように「論理的」に説明できるのかについて、

子供のわかる論理性で解き明かさなければならないし、

それは上から教えるのではなく一緒に解いていかなければならない。

こういうことができる先生の元には顕微鏡などなくてもよい。

逆にただ教科書の無味乾燥した知識のみを話す先生、

おそらくは先生自身がその本質を理解しておらず、

文系よりも理系科目だけが好きだっただけで、

自然に対して興味も好奇心も持っていないような先生の元に

顕微鏡や人体模型などをそろえても何の効果もないだろう。

ということは、理科好きを増やすために最も最初にすべきことは教員の育成ではなかろうか?

ぜんじろう先生に小学校の先生を弟子入りさせて、

その楽しさを学ばせてはいかがだろうか?

効果は5年後10年後になろうが、こちらの方が手っ取り早いような気はするのだ。