体罰

大阪の高校で体罰が原因と見られる生徒の自殺があった。

自殺と体罰との直接の因果関係は不明ということだが、

顔が腫れ上がり口の中が切れている状況で、

それを苦にしたと見られる遺書や手紙まで出てきても「因果関係は不明」というのであれば、

明らかに自動車にひかれて死んだとしても、

ひかれる時に、あるいは死ぬ直前に、

事故とは関係のない心不全がたまたま起こったと主張するのと同じくらい低い次元の屁理屈だろうから、

これ以上は議論する気にもなれない。

 

で、体罰の是非について考えてみる。

前もって申し上げるが私はある程度の体罰は容認する派である。

といって「体罰容認」と捉えられたらそれは少し違うとなるのだが、

まあここではなんと受けとられても構わないが「体罰否定派ではない」とはいえるだろう。

 

ここでは新聞報道にならって「体罰」というが、

今回の問題は「体罰」ではなくただの「暴行・傷害」だろうと思う。

体罰の定義は人によって様々あるかもしれないが、

「罰」という字がつく以上は非難されてしかるべき行為、

たとえば校内暴力など明らかに法律に触れることや、

校内の規律を誰の許容範囲をも超える程度に乱すなどが行なわれて

それを戒めるために行なわれるものが体罰だと思うのだ。

だから、今回のような相手に何の非もない状況での体罰が認められないのは当然である。

それを「指導」とことばを変えて説明するところに問題はあろう。

だから、今回の問題を一般の体罰と同じ土俵で扱って構わないとは思わないのだが、

まあそれに触れると問題がややこしくなるからここでは体罰として議論する。

なお、蛇足を承知で申し上げるなら、

私が容認する体罰とはもちろん「戒め」の方であり、

明らかに乱暴狼藉をはたらく無法者に対して教師は体罰に及んでも構わないと思っているに過ぎない。

だから、今回の問題は(私の認識の「体罰」とはまったく異なるので)とうぜん容認できるはずはない。

この教師は、実績もありこの指導方針を認める保護者もいると聞くから、

なおさらに考えさせられる。

 

話の方向をがらっと変えてみる。

この教師の指導方法を是とする意見と非とする意見があり、

是とする方々はこの教師にかなり同情的であろうと想像できる。

それはそれで構わないと思う。

最終的には個人と個人が納得していればそれでよい。

で、この件に関して私が問題だと思うところは、

「体罰はない」とされてきたところである。

ある程度の体罰を容認する親や子供がいればそれはそれでよい。

そしてその子供が入った部活動などで体罰を伴う指導があっても

それを両者が納得する限りにおいては仕方ないとしか言えない。

むかしは親が教師に「先生、どんどん叱って下さい」

「悪いことをしたら叩いてやって下さい」なんて言っていたのだから。

ただそれはすべて体罰の存在を認めての発言であろう。

体罰があるということを公言した上で、それに納得する人のみが入る、

あるいはそれに納得しない人は入らないという選択肢が公開されていなければならない。

表面上は「体罰はない」とする。

学校も教育委員会も「体罰はなかった」と言い続けてきたようだ。

そして実際はかなりキツい体罰が行なわれていた。

ここに問題があると感じる。

もう一つの、かなり悪質だと思う問題は、

この教師が一昨年の調査に対して「体罰などしていない」と答えていることだ。

この時点で「体罰は悪いこと」という認識が本人にある。

ならやめなければならないし、それを承知で続けたのであれば、

それは教育ではなく犯罪だろう。

体罰は指導の一貫であると信ずるのであれば体罰をしたと公言すればよい。

そして、それを認める子供だけがそこに参加したら良い。

この手順が完全に守られなかった。

「体罰ある程度容認派」の私にもこの点は問題だと思うのである。

 

似たように感じられる議論としては、

たとえば暴力団や売春などを完全に規制したときの問題がある。

実際のところわからないが、

基本的には売春も暴力団も、あるいは賭博も含めてなくならない。

だから、表社会で完全な規制をしたら裏に潜る。

それの方が、法の目から完全に消えるのだから恐ろしいという議論である。

あるいはイジメの問題。

イジメも本質的にはなくならない。

だから「この学校にはイジメなどありません」という前提、

イジメがある学校の教師は評価が下がるという風潮が問題で、だから裏に潜る。

体罰はないと公言すること、

信念として体罰を行なっている教師が「体罰をしていない」という心根、

ここに問題の本質が潜んでいるように思えてならない。

体罰はいつの時代にも起こり得ることを前提にしないと、

同じことは繰り返されると感じる。