階層性

大阪市立大学の教授であった団まりな博士は階層性を考える重要性を説きました。彼女曰く,中性子・陽子・クオーク・・・(一体何があるのか知りませんが)などが集まって水素原子として閉じたら、それは上位の構造に対しては水素原子としての性質のみをもち、その原子の中でクオークがどこにあるとか電子がどこに存在するとかは関係ないということで、同様に水素分子ふたつと酸素分子ひとつが結合して水分子になったら、それは水分子として閉じるはずだから、水分子が関わる事象を調べるのにクオークや電子のレベルを持ち込んでも全く意味をなさないということです。このように,思考する対象の階層を考慮しなければ議論自体が意味をもたないと団博士は説きます。これは科学の方法論としては至極もっともなので、これまで当たり前のように階層を考えて研究をして来ました。クオークの研究者がクオークのレベルでDNAを論じることなどあり得なかった。しかし、我々生物系の研究者は遺伝子(物質としてのDNAやその産物である蛋白質など)のレベルで思考停止してしまったようです。発生学は細胞の社会学や行動学として考えられるものだと私は思いますが、細胞で閉じることをやめ下位の遺伝子によって発生はおろか行動学などにまで研究を進めるに至ってしまった。このような方法論を「間違っている」と団博士は言ったのだと思います。これは、生きものを考える上だけでなく、あらゆる思考活動にとって重要な指摘です。

 

階層性の議論であえて指摘しておきたいことは,いうまでもないことではありますが,下位の要素がひとつの関係性を作り特定の「かたち」として閉じたら、それは上位のかたちの要素になりうることです。かたちは閉じたあとでもその内部では常に揺らいでいるはずですが、上位の要素となった時点で全てのゆらぎは「かたち」の中で吸収される点は重要でしょう。たとえばクリスタリン蛋白質だって、個々の分子は物理化学的にはかなり違っているはずですが、それを「クリスタリン」とひとことで言えるという事実は分子間の差異を消し去れることを意味するはずです。細胞が様々な異なる遺伝子を発現していることはその細胞の癖のようなものであって、その遺伝子に重きを置いて考えたら本質を見失うということでしょう。

 

以前にもどこかに書きましたが、この下位のかたちが上位の要素となることは生きものを考える時には非常に重要な意味をもちます。要するに,下位のかたちを作る要素に変異が生じた場合、かたちを作る時点でその変異に淘汰圧をかけることが出来る訳で,どんな変異が入ろうとも一旦かたちとして閉じて要素になれたら、下位の要素の変異が上位のかたちに影響を及ぼすことは無いはずなのです(下位とか上位とか,かたちとか要素とか・・・文章に表現するのは難しいですね)。この点が、一部の不具合が全体に波及する機械論とは異質のところでしょう。要素が,漠とした関係性の元にかたちを作り上げ閉じた瞬間にかたちとしての意味は消滅し、それが要素となって次の関係性を築き上げることを繰り返したものがゲノムであり生きものであるとする考え方です。だからこそ、多くの遺伝子変異をゲノムは許容できますし,それが多形として存在できるわけです。そして個体差がいかにあれどもヒトはヒトということです。平仮名はかたち(ゲシュタルト)です。だから,ひとつの平仮名をじっと見つめたら個々の要素が主張をはじめ、ゲシュタルト崩壊を起こします。しかし、どんなに乱雑に書かれていようが、平仮名として認識されたらそれはかたちとして閉じ、上位のかたち(単語や文章)の要素となります。ここで、文字のきれい汚いは読める限りにおいては問題にならないし,記号としての意味を持つことが出来れば略字だって問題ない。読めないくらいきたないとすればそれは平仮名としてのかたち(ゲシュタルト)を構築できない「変異」となる訳ですから,上位の文章も意味をなさなくなります。平仮名は平仮名として認識される時に初めて意味を持ちます。同様に、平仮名を並べて「からす」としたとき、それが指し示す対象が現れ意味をなすこととなりますが、この意味は、それを構成する要素「か」「ら」「す」とは無関係であることは自明です。しかし、「からす」として一旦意味を担ったら、それは上位のかたち(文章)においての要素となる。「からすは黒い」という文章の意味を考える時に「か」「ら」「す」「は」「く」「ろ」「い」のように構成要素を単独で解析することに意味は無いってことなのでしょう。しかし、要素・かたち・意味についてはこんなに単純ではないと感じます。それについてはまた後日に議論しましょう。