対話力

ジャーナリスト、特に外国のルポルタージュを書くジャーナリストの素養として、

外国語の能力は、あれば超したことはないが必要ではないというらしい。

言葉ができるということよりも、取材能力が最も重要であり、

言葉だけが話せても全く意味はない、

逆にその国の言葉が話せなくても取材能力が優れていれば

優れたルポルタージュを書くことはできるということだ。

 

最近、電車の吊り広告に「対話力」とある。

某英会話学校の広告である。

冒頭のジャーナリストの話は、この広告の文句を見て思い出したのだが、

この広告では対話力と外国語を話す能力が等号で語られている。

じゃ、英語が堪能な人には対話力があるというのだろうか?

 

我々日本人は日本語を話すことができる。

もちろん日本語で会話もできる。

しかし、日本人同士であっても「対話力」となると別の話だと気付く。

日本語の能力と対話力

(そう言えば別の会社では「コミュニケーション能力」って言ってたっけ?

いや、「異文化コミュニケーション」と宇宙人が言うのだったな)、

この両者は基本的にはまったく異なるものだということだろう。

京大のときに留学生が何人か身近にいた。

日本語の会話力ではもちろん日本人の方が優れているに決まっている。

しかし、日本人よりもたくさん周囲の日本人とコミュニケーションをとる留学生は多かった。

おそらく「対話力「コミュニケーション能力」という考え方では

その留学生の方が一部の日本人よりも優れていたということだろう。

 

「英語さえできたら・・・」と思う気持ちは分かる。

しかし、それは単純な「無い物ねだり」の感情であって、

それが手に入っても現状は何も改善されないというのが本当のところだろうと思う。