リアリスト

リアリストって言ってしまうと何か思想的な感覚があるかもしれないが、

それほど深い意味はなく、ここでは単に「現実主義者」って言葉として使っている。

ではいったい誰のことなのか?

それは私自身のことを自分でそう感じているのである。

 

現実主義という言葉が積極的に使えるかどうか分からないのだが、

私は夢とか希望というものを夢想しない傾向が強い。

「夢を熱く語る」ってのは私の最も対極にあるような気がする。

もちろん「夢を語る」ように感じられることもあるかもしれないが、

それは意識してそう言っているだけであって、

実際にはかなり冷めてその言葉を語っていることがほとんどだろう。

 

では現実って何?ってことなのだが、

私の場合、それは論理だろうと思う。

理屈に合うか合わないかってのが行動の基本にあるのは間違いない。

過去に何度か「論理至上主義」だと言われた事があるのだが

おそらくそれは間違っていないと感じる。

理屈で説明できないことに不安定感を覚える。

なんだか落ち着かないし、理屈で説明できない言動を見聞きすると気持ち悪い。

その理屈の根底にはもちろん倫理・道徳観がある。

倫理観を規範に論理を積み上げる。

恥ずかしいと思うことは理屈抜きに恥ずかしい。

自分のことを自慢げに話す行為は恥ずかしいことだし、

「○○のため」なんて言葉は決して口にできるものではないくらいに恥ずかしい。

「お前のために言ってあげるんだ」ってどんな神経で言える言葉なのか?

だから、そういう言葉を平気で口にする人間を見ると理解の域を超えてしまう。

 

で、問題なのは、この倫理観や道徳観ってのに論理的説明を付けられないことで、

だから、ここの認識がまったく異なる相手の行動の規範を受け入れられないばかりか、

理解できないのでどう対応していいのやら皆目見当がつかなくなるのだ。

だからこれは是非の問題ではない。

価値観の違いという一般論で語る以外にどうしようもない。

 

現実主義というのを端的に表しているのが、

たぶん目的をどのように達成しようと考えるかの思考回路だろう。

私は主義主張はあるにしてもそれを前面に押し出したりはあまりしない。

むしろ、そのときに「こうあるべきだ」という目標があった場合に、

そこに至る過程で主義主張を曲げることには抵抗はあまりない。

各論はある意味でどうでもよく、

総論として自分の望む方向へと少しでも近づくことが優先される。

もちろんここにも己の倫理観が強く働くので、

その「己の望む方向」が他人から利己的に見えないように気を使う。

己の利益のために理屈を振りかざしているように他人から見えることは

最も恥ずかしい行為であると感じているからである。

 

人は、自分の理解できないものごとに恐怖を感じるというのだが、

私は人一倍その傾向が強いように思う。

いま世間を騒がせている「尼崎」の事件なんかは

恐怖を通り越えてニュースを見聞きするだけで吐き気すら覚える。

あまりに気持ち悪く、この事件のことから完全に目を背けているので、

実際のところはほとんど知らないのであるが、

それでも耳に入ってくる情報だけでも耐え難いくらいの不快感である。

私は恐怖映画や、作り物と分かっているようなチャチなお化け屋敷でも怖い。

しかし、真夜中に山の中を一人であることは何も怖くない。

それは、ひとりで山を歩いても何も起こらないことを理屈で理解しているのに対し、

人を怖がらせようとして作っているものは理屈を越えて怖がらせようとしているから

あるいは、こうしたら人は怖がるというのを知って作っているのだから、

制作者の思うつぼにはまって期待どおりの怖がり方をしてしまうのだ。

 

同じ理由で苦手なタイプの人がいる。

それは「斜に構える」人で、

そう言うのを格好いいとでも思っているのだろうか、

議論に限らず物事を真正面から受け止めない、

真面目に議論をしても「そんなに真剣にならなくてもいいやん」とか

「もっと気楽に考えたらいいやん」みたいな言動を意識してする

子供のころでいえば妙に大人ぶった態度を取る人が少なからずいると思うのだが、

そういう人がとても苦手である。

いつもいつも真面目に生きているというつもりはないのだが、

でも、相手が真面目に話していることは真面目に聞くのが礼儀だと思うし、

結論はともかくとして何事にも真正面から取り組むことは恥ずかしいことではない。

それを議論を打ち切るような逃げ言葉で、しかもそれがシャレているとでも、

あるいは頭が良さそうに見えるとでも思っているような他人の目を意識した物言いで

何事にも対処する人間がとても苦手なのだ。

もちろんこう言い切ったら私だってそういう態度を取ることがあるのだが、

なんというのか、斜に構えていいときといけないときの見極めがない人、

あるいはいつでも斜に構えているような人とはまともに話ができないのである。

これは私の大きな欠点の一つだと自覚をしている。

 

先日もJRの優先座席のことを書いたが、

私なら、勘違いであっても自分が間違ったことをしていたら、

そしてそれを指摘されたらたぶんいたたまれなくなるだろう。

状況によっては素直に謝ることができないかもしれないが、

でも、自分の行ないが間違っていることは理解できるし、

間違った行動は即座にやめる。

しかし、それを開き直ってやり続けるという態度、

自分は何も悪くないとできる思考回路が私にはまったく理解できない。

もう言葉の通じない人としか思えない。

養老孟司流にいえば「バカの壁」ってことになるのだろうが、

こういう人に対すると私のような人間はほんとうに無力だ。

若いころは腕力にものを言わせたこともあったが、

さすがにこの歳でそれをしたらただの反社会的な人間だろう。

とは言うものの、こういうときの言葉の暴力と実際の暴力の間に差があるとも思えない。

要するに、理解不能の人と対峙してしまったら

もう何もできなくなってしまうのだ。

 

あれ、なにが言いたいんだったっけ??

ちょっと支離滅裂になってきたな。

タイトルの「リアリスト」とも関係のない内容になってるし。

なんか最近、自分の考え方を思い起こしてみて、

すごく理屈だけで動いているなあと思ったので

それを分析しようとして書き始めた文章なんだけど、

(↑この時点でかなり理屈っぽいですね)

まったく分析に至らなかったですね。