関係性を築くための素地

脳についてどう考えるのか?についてだが、

まあ脳科学の分野から色々と成果は出ている(のだろう)。

ただ、これは言語その他によって関係性が確立した、

いわば完成した脳の働きであり構造である。

こう考えると、脳をそのまま構造として捉えるのとは話が違ってくる。

脳が、何のソフトもインストールされないままでその働きを議論することが

はたして可能かについても議論しなければならないとは思う。

なぜなら、脳科学とは言うものの、

あらゆる価値観がインストールされたあとの脳は

そのインストールされたものの違いによって

その働きもある一定の水準で異なることが考えられるからである。

 

さて、学校時代にも頭の良いヤツと悪いヤツがいた。

運動のできるヤツとできないヤツがいた。

記憶力のいいヤツやひらめきのいいヤツがいた。

これらはすべて脳の働きの違いに起因すると考えていいだろう。

運動だって、どの筋肉をどの瞬間にどれくらいの力で動かすか、

それも一つや二つの筋肉では無いから、

それら複雑な筋肉の制御は一義的には脳の所作である。

したがって、どの運動神経をどの時点でどれだけ発火するかという、

ある動きをする時の神経回路のネットワークの問題であり、

したがって、「かたち」の問題と理解しても構わないと思う。

記憶にしても、単独で記憶することは論理的には難しいだろうから、

何かと関連づけて、いわゆる「かたち」として記憶させる方が確かである。

 

さて、ではこの能力の違いはなにに起因するのだろう?

まあ当たり前だがそれは脳の能力に起因しそうだ。

では、脳の能力って一体なになのかということで、

特定のかたちを受け入れる土台を有するかどうかにあるのではないか、

すなわち、生まれて何度も色々な筋肉を使う過程で、

この筋肉にこのくらいの力を入れたら立てるし歩けるってことを

脳の中にかたちづくるのだろうが、

このかたちを作る素地の能力に問題があるのではないかと思うのである。

ある種の関係性を構築しないと脳は機能できないとすれば、

その関係性を構築する能力はある程度物理的に決められるのではないか?

物理的とは言い過ぎだとは思う。

しかし、絶対世界からある種の価値基準で切り出してきた要素を脳が取り入れる際に、

その要素を脳への信号として特定の場所に取り込み

それ以外のものとの関係性を気付くところで

脳のハードとしての絶対的な能力が異なることで

その機能の差異にもつながるのではないかということだ。

これは例えば、要素を入れることのできる器の「大きさ」の違いもあるだろうし、

大きさではなく「質」の違いもあるだろう。

脳の中で要素同士の関係性を築くための「距離感」にも関係するかもしれない。

そもそも、絶対世界からの切り出しすらも脳の所作であり、

その時点での違いということも考慮するべきだろう。

 

これは、ヒトという生物が先天的(即ち遺伝的)にもつ言語習得能力にも

もしかしたらつながっていくことなのかもしれない。

言語という体系を、その要素同士の関係性という意味で脳にかたちづくるとき、

言語のような複雑な関係性を許容できる物理的あるいは機能的な受容能力が、

人の脳には遺伝的に存在するということに過ぎないのではないかとすら思う。

この、関係性を受容できる素地を

チョムスキーのいう普遍言語の受け皿と表すことは可能だろうが、

複雑な関係性を構築できるだけの器の大きさに他ならないのかもしれない。

言語に限らず、脳の働きにはかならず要素の切り出しと共に、

要素間の関係性の構築が必要である。

また、関係性、即ち構造には階層も同時に存在する複雑なかたちである。

ある視点では構造であるものが別の視点では要素となるようなものであるから、

マトリョーシカのような単純な階層ではなく、

代謝経路図のように複雑に入り組んだ迷路のようなかたちであろう。

それを、その関係性を構築できる能力、情報処理できる体系に並べる能力、こそが

われわれの脳のハードとしての特殊性なのではなかろうか?とも思う。