読点について
忘れかけた頃に同じことを書いていますがご容赦を。
連休中、風呂場で読書していた時に読んだ文章です。
「今田信子は、気が優しくて、よく働くこの部下を可愛がっていた」。
さて、今田信子さんが気が優しいのでしょうか?
それとも「部下」が気の優しい人なのでしょうか?
この文章だけではまったく分かりません。
その理由はあってはならない読点があるからです。
今田信子さんが優しいのなら一つ目の点はあってはならないし、
部下が優しいのなら二つ目の点はあってはならない。
両者に点があるということは、
どこにも点がないこととその意味において等しいということです。
読点にかなり重要な役割があることを学校で教えないようですが、
これを教えないで分かり易い文章など書けないのになって思います。
読点に関して、後輩の卒論を読んでいて同じ疑問を持ちました。
特に最近の子は息継ぎのタイミングで読点を使用しているように感じます。
英語の”,”の使い方は勉強するのに、日本語の読点は「役割り」は勉強しても「使い方」に関しては勉強した記憶がありません。
学校の先生には「ニュアンスで」と教わったような気がします。
しかし、今打っている文章も気を使いすぎてやたら読点を打てなくなってしまいました。
修飾語の配置と、読点の打ち方を工夫するだけで、
かなりわかり易い文章にすることはできると思います。
それと、これは好みの問題だとは思いますが、
森山さんの文中にある「今打っている文章も」などは、
私なら漢字の続く書き方を避けるために「いま」はひらがなにします。
これらはある程度の共通原則はあると思いますが
あるところからは個人の趣味の問題に話は変わりそうですね。
それから、「息継ぎ」で読点を使用するとなれば、
文頭に「私は、」は書けませんよね。
書いている人の肺活量と読点の数も比例しそうにも思うし・・・。