抵抗感
チョムスキーに絡んでこのところごちゃごちゃと書いている。
(ちなみに「絡んで」とは酔っぱらいに絡まれる方の絡むではない!)
で、間違いなくチョムスキーの理解が足りないのは事実なので
私自身のレベルで誤解していことにむしゃくしゃしているだけなのだろうが、
どういうところに共感できないかと言えば、
それは、物事をア・プリオリに規定し過ぎているところであろう。
言語が絶対的に存在しているってところなど、
何かに前提をおいてから議論が始まっている。
もちろん議論には前提が必要だろうが、
それは必ず相対的なものであり、移ろいゆくものであるということが、
考慮されていないように思えてならないところに
言うにいえない気持ちの悪さがあるようだ。
コンピュータ言語には、すでに与えられる単語や情報がある。
しかし、ヒトの場合にはそれを切り取る作業が必要であり、
また同じものを見ても切り取り方が異なれば情報は異なる。
この危うさがチョムスキーの議論には見えないように思える。
ただ、チョムスキーはソシュールの信仰者だと言われているから
それが考慮されていないとは到底思えない。
この辺りになんとも言えないイライラ感が生じる原因がありそうなのだ。
まあ、何の解決にもならないけど、
チョムスキーはアメリカ人であり、
チョムスキーの出てきた頃のアメリカ言語学は「構造主義」であったことは確かだが、
一般にアメリカの構造主義とヨーロッパの構造主義はまったく別物だと言われているので、
この辺りの齟齬がなかったかと考えようとしても、
「そりゃないよな」って思うのが普通だろう。
チョムスキーの言う「かたち」を体得するにはまだまだかかりそうだ。