言語間の翻訳

チョムスキーは、われわれが普通に用いている表面的な言語の他に、

われわれヒトが生まれながらに、従って遺伝的に持つ普遍言語を考えたようだ。

そして、どうも普遍言語というものはヒトという生物種にとっては「普遍」であるようだ。

その普遍言語の具現化したものとしてわれわれが普段用いる言語があるとしている。

 

こうなるともはや言語というものの定義の問題かもしれないが、

この論でいけばいったん普遍言語を介しさえすれば

複数の異なる言語間にある意味で直接的な翻訳が可能となるのではないか。

この「直接的」とは、ニュアンスや感覚的なものを取り去ったうえでの

ある意味機械的・関数的な対応関係を構築できるという意味であり、

チョムスキーがそういう意味で言ったのではないのかもしれないが

額面的にはそう取れるような気がしてならない。

 

意味とは相対的であり、それはそれぞれが持つ言語体系に依存すると思っている。

また、その言語体系すらも、生活習慣や自然などから必然的に獲得した

「切り出す方法」に完全に依存していると考えられる。

だから、日本語にあって英語にない、

英語にあって日本語にない感覚が存在するということだと思う。

だからそもそもの体系が明確に異なると考えてしまう。

 

話は変わるが、切り出すことの必然とは単純なことである。

連続したものをコンピュータにインプットできない。

やはり情報としては始まりがあり終わりがなければ、

即ち何らかの意味で切り出しが行なわれなければ

一つの単位として確立しなければ成立しないと思う。

自然数という、今のわれわれには至極当然であり、

ア・プリオリに存在するとすら思える概念を切り出したから、

例えば数学という体系が確立した。

また、自然数を規定したからこと、自然数とは異なるものを規定できる。

同様に、感覚であろうが何であろうが、

どこかで何らかのカテゴリーによって切り取られなければ

ただの混沌であろうし、

そもそも体験を構築する要素になり得ないのではなかろうか。

 

この切り出すという手段をとったあとでようやく言語体系が確立すると思える。

ここでジレンマは、切り出しにはおそらく言語という方法論が必要であることで、

これではニワトリが先か卵が先かという話に陥る。

ただ、切り出しには生活習慣が大きく影響しているのは間違いないだろうから、

まず、さまざまなものを環境(自然)を含めた生活の中で必然的に切り出していき、

それらが集まった時に要素間で自己集合的に何らかの関係が形成された可能性はある。

それは、要素の切り出しからの必然的な流れであり、

言語とすらいえないかもしれないが、非常に原始的な「言語体系」の一種と考えられないか?

 

この考え方は、ちょっと論理に無理があるようにも思えるが、

チョムスキーのいう深層構造というものに

ヒトという生物種に生物学的に備わっている何かを関連づけることが

私の脳ではいまだにできないことへの苦悩の足跡かもしれない。