原発の安全基準

原発の安全基準に関してさまざまな報道がなされているが、

どうも、少なくとも私が考える感覚とは違う話になっている。

私は、安全の基準を知りたいのではなく、

どこを越えたら危険なのか、

何が起こったら制御不能になるのかを知りたいと考える。

 

だから、ここまでは安全ですという考え方ではなく、

これを越えたら危険ですという考え方を示してもらい、

社会生活における必要性と天秤にかけて市民が判断するべきだと思う。

 

例えば、このレベルの「津波には堪えます」としましょう。

「これ以上の津波は(希望的に)来ることはないので安全です」ではなく、

もし、その想定を越えた場合に何が起こるのかを知りたい。

想定を越えた津波がきた場合に、例えば電源が喪失した時にどんな手だてがあるのか、

その手だても何らかの事情で失った時に次になにができるのかなどと、

とにかく屁理屈に近い反論を重ねながら、

考えられる限りすべての危険を議論の俎上に上げて、

その対策を徹底的に示して頂きたい。

その上で、理屈として「これが起こったらもうどうにも対処できない」ということがでる。

それを社会が容認できるのかどうかってのが本当の判断だろう。

たとえば、100メートルの津波にも堪えうる設備にしていても

それを越える津波を仮想的に考慮すると、

次に、その津波による被害を想定できる。

その津波の被害もあらゆる対策を講じて完全に防げる設計にしていても、

それが作動しない可能性も無いとは言えない。

その時にバックアップ電源の整備、

あるいは電源がなくても炉心を冷却できる何らかの方法が練られているだろうが、

それも失った場合に・・・ととにかく最悪のことを想定して、

「ここまで起こったらもうどうしようもない」というのを明らかにし、

それと、それが起こるであろう確率や、

では原発を止めた時に社会が被る影響などを客観的に比較検討する。

その結果として、原発の是非は決まるのだろうと思うのだ。

もちろん、ハード面だけではない。

もし事故が起こった時に原発周辺の人への対応や非難・対比の仕方など、

二重三重の対策を網の目のようにめぐらせて、

それで稼働を是とするか非とするかということである。

 

だから「安全基準」という感覚そのものがおかしいと思う。

むしろ「安全の限界基準」みたいなものでなければならない。

勝手な値を想定値として、それをクリアしたら安全だってのが

今回の福島の事故につながったのは誰もが知っている。

二度と「想定外」という言い訳は聞きたくないと思っている。

だったら、その想定を儲けるのはやめて、

考えられる限りすべての起こり得ることを想定することから始めようよ。

要は、「安全性の証明」ってことばが語義矛盾であり、

「安全の限界の証明」って気持ちが無いと、

「安全性」って概念を出した途端にそこに必ず恣意性が入り込む。

このような恣意性を排除することが危機管理ってことじゃないですか???