ことばと時間

ことばの学習によって物事を切り取ると書いた。

その流れで長いあいだ考えていることがある。

 

私は、時間の感覚も言語によって異なると考えている。

単純な話としては、口惜しいとかガンバレという日本語に相当する英語はないらしい。

英語にないということは、英語を話す人にはその感覚がないということだそうだ。

で、時間を感じるというのも言語を介しているように感じる。

時間というのはア・プリオリに存在すると思うむきもあるだろうが、

実際には考え方はさまざまであるし、

やはり感じるということは脳の所作に帰結することだと思う。

 

ことば論に完了形の感覚というのを書いた。

英語の完了形というのは日本語に訳せば時制の一種として捉えられるが、

これは日本語と英語の時間の感覚の違いにより、

そう訳さざるを得なかったからそうなったに過ぎないと思っている。

これは進行形の感覚も同じことだろう。

で、英語を母国語とする人は、

この英語の「時制」で時間を認識しているのは間違いない。

それは、われわれが日本語の感覚で「時制」を認識しているのと同じだからである。

その際に、過去から現在を通って未来へと続く時間の流れをどのように理解しているのかは、

用いる言語によって異なるはずだというのが私の考え方である。

 

で、この議論の詳細はことば論をご覧いただくか、

あるいはまたあらためてこの欄でしてみようとは思うが、

今回はこれを前提に話を進めよう。

 

先日、例えばあらゆる色の中から赤色という概念を切り取るという話を書いた。

これと同様に、時間の感覚も言語の習得に伴って

絶対世界から切り取られて認識されているのではないかと思うのである。

そもそも時間というもの自体がどのように存在しているのかにはさまざまな議論がある。

私はライプニッツ的な認識に共感を覚えるし、

一般的にはおそらく時間は個人の意識とは別に物理的に「時を刻んでいる」とされるだろう。

ただ、その前提として時間を人がどう捉えているかという次元の議論が

言語的立場からなかなかなされていないように思えてならない。

その原因としては、やはり自分の認識を前提に議論をせざるを得ないし、

自分の認識は他人の認識と、一義的には、共通であると信じるところにあると感じる。

 

この議論と同じところで、無垢の脳が外界の情報を取得する方法論として、

われわれは言語体系を介することを選択したとおもえるのだ。

時間という感覚も、ア・プリオリに存在したのではない。

それを言語の体系によって切り出すことで脳に情報として載せることができた。

だから、その切り出し方を物理学という方法論によれば

相対論のような切り出し方になるであろうが、

どちらにしてもそれは脳がどう認識するかということでしかない。

物理であろうが数学であろうが、あるいは言語であろうが、

用いる体系により切り出し方は異なるだろうし、

それによって脳が認識する情報も異なるだろう。

 

さて、ここでゲノムとの関係になる。

私にとってのこの世界は私の脳の働きがなくなった時点で消滅するわけだから、

極論すれば、この世界自体が私の脳の認識により存在しているとも思える中で、

認識の方法論として最も早く洗われるのが言語というわけである。

まあ、これは言語という言い方になっているが、

これは別の論理体系であってもおそらくは構わないだろう。

しかし、人の五感により発達段階で脳の中に確立していく体系としては

やはり言語以外には馴染むものがないだろう。

そして、その言語が(あるいは論理体系が)確立する場所が存在するのが脳であり、

その脳を作るのがゲノムであるという関係性を

無理矢理なこじつけと考えるか潜在的普遍性を見いだすかが分からないのである。

 

いや、ちょっと展開が急すぎて無理が出てきたな。

もう少しゆっくりと議論すべき話題だと感じるので、

この話はまたいつか。