なぜ?を問うこと

すでに存在する事象に意味は問えないと書いた。

そこに存在する生きものに、「なぜいるの?」とは問えないのだ。

「なぜ生物が存在するのか?」に対しての答えは偶然だとしか言いようがない。

 

なぜとは、思惑や意思を問うための言葉であろう。

だから人の言動にはなぜを問えることは疑いない。

しかし、自然を対象にすると、

神の意思を問わない限りなぜという設問は成立しない。

では、「なぜ」人は自然に対してなぜと問いかけるのだろうか?

そこに神の意思を見いだす場合もあるだろうが、

たとえば生き物になぜを問う場合には、

その生き物の意思を問うているように思える。

「なぜキリンの首が長いの?」

「それは(キリンさんが)高い葉っぱを食べようとしたからだよ」

のように擬人化した理由付けをしてしまう。

擬人化することによってそのものに意志を持たせられるからであろう。

では、なぜ、生き物の意思を問うてはならないのか?

これはおそらく西洋科学が意志を排除することで成立したからだろう。

なぜに答えることは非科学的だとし、

徹頭徹尾「いかにして」に徹したものが科学であり、

気分や感情・意思などを持ち込むことを否定したからであろう。

だから、自然科学になぜを問えないのは、

科学のなりたち、もっと言えば科学の定義に矛盾するからである。

これがおそらく、今西錦司が非科学と言われた最大の理由ではないか。

科学の方法論とはなぜを否定して初めて成立するということであろう。