感じ方と言葉
以前に、翻訳家(なのかな?,映画の字幕でよく見るひと)として
戸田奈津子さんが質疑応答形式で話をしていた。
その中で、質問者が「英語には日本語のような繊細な表現はありませんよね?」と聞き、
戸田さんは「そうですね」とお答えになったいた。
何度か書いたことだが、ヒトは言葉にない感情を持たないようだ。
どういうことかと言えば、
たとえば英語に訳せない日本語の多くが心の動きを表すものであるということで、
たとえば「くやしい」とか「ガンバレ」とかは英語にないことで有名であろう。
綺麗な日本語を操り、美しい日本語を書くことのできるアメリカ人が、
日本に数十年暮らして初めて「口惜しい」という感情を持ったと語っていたが、
アメリカ人には「口惜しい」という感情はなく、
同じ状況におかれても異なる感情を持つそうである。
ではこれはなにを意味するのか?だが、
だから日本人は精神がきめ細やかだということではなく、
日本人とアメリカ人では感じ方が異なるということであり、
それはその言葉にかなり依存しているということなのだろう。
もちろん経緯としては言葉が先か感情が先かはわからないが、
個人が発育する段階で見ると言葉ありきで感情が芽生えるように思える。
だから、日本語の「繊細な」表現を英語にできない例はたくさんあるが、
逆に英語の感情表現を日本語にできない場面だってある。
大体が、時間感覚ですら英語と日本語では異なる。
だからこそ、他言語で書かれた哲学書の翻訳物は理解に苦しむのであろう。
我々とまったく異なる時間感覚を持った外国人が
日本語とはまったく異なる言語でその思想を表現し、
それを日本語に訳した上で我々の脳で思想体系として展開させるなんて、
もはや絶望的な気持ちすらしてしまう。
日本人に多い自虐的な思想は良くないと思うが、
だからといって無責任に「日本人は素晴らしい」というのも同じ次元の話だろう。