形式
短歌や俳句などには文字数などの決まりがある。
文字数に限って考えてみると、
一つの文字には五十音や、その濁音・半濁音・拗音などを入れると
70通りを越える音が入り得ることとなろう。
それが五七五だと17音あるわけだから、
その組み合わせの可能性は天文学的数字になろう。
しかし、ランダムに音を組み合わせると、
そのほとんどが意味をなさないことは疑いようもない。
だから、意味をなすという制約のもとに組み合わせを考えると
その数は極端に下がるだろう。
さらに、意味はなしているが俳句としての体をなしていないものも
おそらくは排除されていくだろうと感じる。
そうすれば、単に文字数から考えられる組み合わせの数から見たら
俳句として成立するものは極めて少数のものとなるだろう。
これが私の考えるゲノム論に近い考え方なのだ。
最低でも意味をなすかなさないかというのが
ゲノムで言うところの内部淘汰であり、
意味をなしたものが俳句として成立しているかが、
外部(自然)淘汰とみてもあながち間違ってはいないのではないかということだ。
単純に文字(音)と遺伝子を対比させることはできないかもしれないが、
数万ある遺伝子の並び方なんかも組み合わせ的にはいくらでもありうるが、
おそらくその大半の組み合わせではゲノムとして成立できない。
すなわち内部淘汰に打ち勝てないということであり、
そこで遺伝子の並びにゲノム(体系)としての意味を持たせられても、
それが自然環境に対応できなければ淘汰(自然淘汰)を受けることとなる。
要は形式、すなわち「かたち」であり論理・体系の構築には
大きな意味での二段階の拘束が存在しているということを物語っているように思う。