白衣
赤ひげ診療譚で、小石川養生所の医師はネズミ色の袷を着ているとある。
そして、町を歩いている時にその服を見て貧しい人が寄ってくると書かれている。
その理由は、貧民からは金を取らずに診察をし薬を与えるからである。
で、これが「記号」なのだなあと思った。
「記号自身の中に意味が存在するのではなく、
それを取り巻く他の記号たちとの関係性のネットワーク(体系)の中でのみ意味を持ちうる」
という意味のことをソシュールは考えたそうだが、
「ネズミ色の袷」自体には何も意味はない。
しかし、養生所の医師がそれを着ているという事実、
養生所では貧民に医療を施してくれるという事実などなど、
「他の記号たち」との関係性が成立しているおかげで
「ネズミ色の袷」に意味が構築され記号となる。
だから、この時代の江戸でなければ成立しない記号であるという点で、
「それ(ネズミ色の袷)自体に意味はない」ということが了解できる。
これが関係性(すなわち「かたち」)であり、
関係性がないところに意味は成立しないという「意味」である。
こう考えると、現代でも同様のことは山のようにある
医者や看護婦の白衣もそうだろうし、
料理人や寿司職人の白衣もそうだろう。
衣服にとどまることはなく、
意味を持つすべてのものに関係性のネットワークは成立している。
しかし、人はそれを意識しない。
だから、そのもの単独で意味を持つと思い込む。
「頭部を作る遺伝子」だと、遺伝子自体に意味付けをしてしまう。
ツメガエルで頭部を作る遺伝子がイモリでは頭部を作らないことに目を向けない。
しばしば、構造論は分子生物の対極にあると議論されてきた。
たしかに昔の構造主義生物学者たちは分子生物学に対抗意識を持ち、
敵対関係を作ることで己の存在意義を見いだした感もある。
しかし、まあこれ(敵対関係を作ること)自体が、
相手との関係性においてのみ己の(存在)意味を見いだせることに他ならないし、
分子生物学者にしても無意識で関係性の元に分子の意味付けを行なっている。
問題は、それを議論する際に、あまりに無頓着に意味付けをしすぎることである。
病院という概念がなく、看護婦という存在もない環境でも、
「白衣(看護服)を来ていれば看護婦である」みたいな意味付けを平気でする。
戦時下においても赤十字の印に攻撃を仕掛けないのは、
赤十字が、それ自体で特別な意味をア・プリオリに持っているからではない。
意味とは、記号とは、こういう概念なのだろうと思う。