作法

週末に「切腹」と「十三人の刺客」を見ました。

古き良き時代劇ですが、見ながら気になったことがあります。

私の子供の頃は週に何回もゴールデンタイムに時代劇が放送されていました。

映画番組でも時代劇が流されていました。

だから、日本の作法、武家の作法など正確には知らないものの

何となくですがその意味するものを生活の中で理解していたと思います。

 

時代劇、それも古い時代に作られたものでは、

この作法にも無言の台詞を与えていると思います。

例えば無言で白装束をおかれた時には切腹を意味することや、

ただの座り方一つでも上下の関係が見事に表される。

武士が走る時にはすり足が当然であり、

だからこそ、あまりに慌てふためいた場面を表現するのに

あえてバタバタと走り行かせるということ。

切腹の作法も同じ、家族の作法も武家ではこうであると言う約束事、

武士が持っているべき精神論なども含めて、

まあ、上げたらきりがないくらいにさまざまな行儀作法がある。

そして、それを知っているからこそ物語を理解できるはずで、

いや、逆だな、それを知っているとして映画が作られ、

だからこそその映画の無言の場面に重い意味ができ上がるということでしょう。

 

このような映画が国際映画祭に出品され絶賛されるという。

この映画の精神世界を日本文化を知らない西洋人がどのように見ているのか?

もっと言えば、現在の若者にこのような映画を鑑賞できるのか?という疑問が起こったのです。

なにも私が偉くて他の人間が無知蒙昧であるなどというつもりなど毛頭ありません。

ただ、地上波テレビで時代劇を流す量が極端に減りました。

というか、昼間に再放送で密かに上映されていたものでさえ、

今では韓国のドラマに置き換えられていますし、

子供が、嫌でも普通に時代劇を見るという環境はまったくなくなったように思えます。

親子一緒に時代劇を見、お父さんが子供にいろいろと教え聞かせるという生活すらも

今やなくなったのかも知れません。

以前に、「この印籠が目に入らぬか」という台詞が日常では使えなくなるだろうと書きましたが、

それが、もっと根深いところで本当のことになってきている感が否めません。

意味もない作法など消え去っても問題ないという言葉は聞かれそうな気もしますが、

上手く説明できないけれどそれは違うと思ってしまいます。

日本人の精神性ってそういう伝統に培われ育まれてきたものではないかという気がするのです。

それをないがしろにしたら精神の支柱を失うような気がする。

我々が依って立つ何かをなくしてしまう気がしてならないと感じています。

 

なお、西洋人が日本文化について知らないから日本映画の神髄を鑑賞できないとしましたが、

それはほんの一部分かも知れません。

また、逆に私たちも西洋の人の心情や文化を知りませんから

西洋の映画を正しく理解できているのかと問われればはなはだ心許ない。

いやあ、難しいことですね。

ただ、なんとかして週に1〜2本は侍もののドラマを流して欲しいなとも思います。