無事故

以前にも書いた話だが、

もしも原発の対応がある程度できていて今回の津波にも堪えられたとした時に、

私たちはどのように評価をしただろうか???

 

というのは、一度も痛い目にあっていなければ規制はどんどん緩んでいくと何となく感じるからだ。

今回被災した地域でも、前回の大津波の時に大きな被害を受け、

その時に教訓として海際には住まないように言い伝えられていたと聞く。

しかし、数年・数十年が過ぎるうちに海際にも人が住み始めた。

 

で、完璧な備えをした結果として危機に対応できた場合に、

その備えの完璧さを我々は感じるだろうか?という疑問が生じるのだ。

完璧な備えだったから危機にギリギリ対応できたのだと思うことができるのだろうか???

少しでも備えがゆるければ危なかったと思うことができるのだろうか?

結果として被害がなければ、

「何となくこのくらいでもいい」あるいは「もう少し緩めてもいい」

って感じで対応にゆるみはでないだろうか?

 

たとえばJCOの臨界事故の時にも、マニュアルは徐々に改悪されてきたと聞く。

当初は二重三重の危機対応がなされていたものが、

危機管理は三重が二重に、二重が一重になったあげく裏マニュアルまでできて、

結果としてバケツを使って手作業で流し込むという

まあ専門家にとって普通には考えられないことが常態化したわけである。

しかも、その作業を行なっている人たちの慣れが「経験値」として正当化され、

学者の指摘を「理屈ばかり言って現場を知らない素人」とばかりに考えてはいなかっただろうか?

 

危機管理に関しては無駄だと思うくらいの気持ちを常に維持しなければならない。

これさえやっていれば事故は起きないということをした上で、

それでも事故が起きた場合にどう対処するかについて考えられていなければならない。

機械の不備や人為的ミスも含めて、それこそ極端な性悪説に立った上でなければ

危機管理体制なんか敷けるはずはなかろう。

問題はその緊張感をどのように維持できるのかということである。

事故が起きなければ規制は緩む傾向にある。

気持ちも緩んでいくだろう。

緊張感を平時でももち続けられるかが一番重要な危機管理なのではなかろうか?

でも、ここが一番難しいんだよなあ。