線の意味

この欄で先日「今日の芸術」に関して書いた時に岡本太郎の言う「八の字文化」について触れた。

これをもう少し考えてみたい。

 

八の字文化とは、たとえば絵画の線一本一本に言語的な意味付けをすることであろう。

こう描いたらこういう意味を持つと常識的に了解することであり、

その常識とは生まれ育ってくる過程で教育されたものであるということだ。

もちろん、色彩にも意味付けはされているし、構図にも意味付けはされている。

小さい子供が描く人間は頭が大きかったり、色彩が鮮やかだったりする傾向がある。

その頃の自分を思い出せないから想像するしかないのだが、

もしかしたら「教育」されていない人間にはそのように見えているのかもしれない。

もちろん、外部感覚器としての眼はそうは見ていないだろうが、

五感、あるいはそれ以上の感覚で捉えた人間の姿とはそうであるのかもしれない。

しかし、先生は、あるいは親は教育の過程でその感覚を修正する。

眼が認識するものがすべてであるとしてしまう。

それが、線の意味付けであり八の字文化の正体ではあるまいか?

 

若い頃は、写実的なものは素直に見たままを書いているから線や色に意味はなく、

抽象画こそ訳の分からない線や色を使い、

そこに訳の分からない意味をもたせていると思っていた。

でも、おそらくそれは完全に間違っているのだろう。

だからこそ、芸術は己が感じるままで良いといわれ、

意味付けすることをやめようと多くの人が言うのが今では正しいと思う。

そして、写実画こそが長い時間をかけて意味付けされてきたものであり、

その意味付けとは、洗脳に近いくらい脳の奥底にまで踏み込んでいるのだろう。

見えているものとは、外部感覚器としての眼が認識した情報であり、

それは、眼が認識できるものしか認識できない限られた情報である。

また、その情報を己の論理で脳が処理することで我々は「理解」できたと感じる。

この過程が危なっかしい。

自分が認識しているものはア・プリオリに疑いなく正しいと感じることこそが危ないのだが、

我々はそこに疑いをもたない。

というか、そこに疑問をもてば、たちまち己の立ち位置を見失うだろう。

極めて不安定な場所にさらされることとなるし、

それが恐ろしいからどうしても依って立つ「常識」を持とうとするのだろう。

脳の議論にいつも小さな抵抗を感じているのは、

言い古された言葉だが、その「脳」を考えているのも「脳」なのであるという

考え始めると寝られなくなるような堂々巡りに依るのだろうと感じる。

 

解脱ってのもこんな感じで「意味付けするのをやめる」ってことなのかもしれないな。