写実と抽象

絵画を極端にみたら写実画と抽象画に分けられるような気がする。

専門家ではないのでこれ以上に分けられるのか、

あるいはこの分け方が正しいのか分からないが、

素人目でそのように感じてならない。

 

で、「今日の芸術」を読んでいて何となく感じることがあった。

うまく表現できないのだが、写実画って脳の言語的思考の産物のように感じるのだ。

言語的思考とはある意味で常識的な論理性であり、安心できる枠組みであろう。

常識的な論理性という表現もおそらくは逆が正しい。

すなわち、我々は言語的思考をするようになっているので、

それを常識と捉えて安心できるということだろう。

 

「山とはこういうものである」という常識に沿ったかたちで描かれているものには

安堵感を持って対応できるのだが、

想像だにできない線や色で山を表現されたらたちまち不安になる。

それは、我々が我々の感覚器を通して切り取った「山らしきもの」に忠実であるからであり、

山とは本来そう描かれるものだと教え込まれてきたもの、

美術の授業で、そのように描ける技術を持った生徒が高い評価を受けるようなもの、

それが我々の脳が安心するのだろう。

ただ、ここで「脳」とは書くものの、ではこれらが脳の生物学的な所作かと問われれば

それは違うだろうと感じるのである。

技術の問題も多分にあるのは分かるのだが、

小さい子供が描く絵は、その色使いも線も何もかもが「斬新」である。

それを技術的に常識の枠にはめていく過程が美術教育なのかもしれないと思うくらいだ。

外部感覚器と脳をつなぐ経路にも絶えず教育が必要である。

自然の中を動き、そこにあるものを触りすることで、

隠されているものを想像できるようになる。

本来は何かと重なって見えない部分にまで元のかたちを推理し頭の中で補っている。

それは感覚器が認識しているそのものではない。

二つの目は測距儀の役割を果たすのはよく知られた事実だが、

もし、走ったりこけたり物を触ったりという経験がなければ、

二つの目で見たものに奥行きを感じることができるのだろうか?

同様に、教育されていない脳によって純粋にものを見た場合に

そこから感じられるもの、感性といってもいいかもしれないが、

それはおそらく写実的なものとはまったく異なるように感じられてならない。

岡本太郎は「八の字文化」と表現した。

漢字の八の字を描けばお約束として富士山だと思ってくれる。

この「お約束」を一笑に付したのだ。

ただ、教育(学校教育を指すのではない)とはお約束を覚えることである。

感覚器からの情報を処理する為のお約束を学習しなければ脳は機能できないだろう。

手足にどれだけの力をどれくらい入れたら立ち上がれるのか、

どの筋肉をどの程度どういう風に動かすと歩き走れ止まれるのか、

それを脳に学習させない限り生物としての活動はできない。

 

お約束に埋没している状態を安心するのは当たり前のことなのである。

だから、お約束から逸脱したものに恐怖を覚えるのも当然なのである。

スペイン内乱に怒りを覚えたピカソが描いたゲルニカを小さな子供が恐れおののいたらしいが、

これこそが、お約束に縛られる前の、生きものとしての根源的な感覚に近い何かなんだろう。

美しい風景画に心現れるのがよくわからないと以前にもどこかで書いた。

芸術というよりは技術の問題じゃないかと思ってしまうからだ。

きれいだとも思うしすごいと感動もするのだが、

それはその画家の技術に感動しているにすぎないように思っていた。

大自然のど真ん中に立ったときの自然のすごさは

それを写実的に描いて表現できるものではなかろう。

あの恐怖にも似た脅威を表現するのに、

その対称にある「躾けられた脳」による技術では役に立たないのだろう。

そこに抽象芸術の存在があるのだろう。

ピカソもゲルニカを何も好んで抽象的にしたかった訳ではあるまい。

五臓六腑に染み渡る、あるいは全身に鳥肌が立つ感動や怒りを表現するには

「写実的」では手に負えなかっただけなのだろう。

 

時に芸術家は「文明」と闘っているようにも感じる。

これを「文明」と表現するから違った方向に理解されるように思う。

文明と表現されるのもの本質はおそらく岡本太郎の言う「八の字分化」であり、

これは「文化」というくくりなのではなく

人間が人間として存在する為に必要なしつけや教育(生物学的な意味も含めて)すべてを

「文明」として表したのにすぎないのではなかろうか?

 

私たちの脳は、感覚器官を通じての情報収集しかできない。

だから、感覚器官が認識できない情報は存在しないものと同義となる。

しかし、いかなる情報であろうとも、情報として切り出せるのであれば、

それは論理的には脳において認識されることは可能であろう。

もしかしたら、現在とはまったく異なる情報にあふれていた古代からの記憶が

我々の脳の中にも何らかのかたちで残っており、

その奥底を刺激する為には教育を受けていない感覚をもってしか成立し得ないのかもしれない。

なんとも抽象的な文章になってしまったが、これもその定義として仕方ないのかな?