国家観
国家観について、日本人と欧米人ではかなり違うような気はする。
その理由として、日本人は人と人とのつながりに重きを置いているのに対し、
欧米人の思想は人という個に重きを置いているからだろうと思っている。
だから、英語で人のことをhuman beingというのに対して
日本語では「人と人の間」として人間というのだとどこかで書いた。
この辺りの議論は日本人の国家観を考える上で、
特に欧米から輸入した国家体制を日本に当てはめている現状を見る上で、
かなり重要なところだろうと思うのだが、
思想信条的な日本人論はよくみるのだが、
「かたちを主体とする日本人観」と「個を主体とする欧米人観」については
寡聞にして接したことがない・・・などと考えていたら、
「日本人は国家に寄りかかろうとは夢にも思っていない」と
フランスのル・モンド紙に書かれているということを知った。
これはおもしろい見方だと思う。
たしかに、日本人は役所・役人と自分たちの生活とを切り離して考えているように思う。
自分たちで作り上げた社会という感覚が古来より少ないのだろうか、
国や地方の役所っていうのは、まさに文字通りお役所感覚で動いている別の場所であって、
自分たちの代表が自分たちの為に何かをする場所というイメージがないのかもしれない。
というのも、日本人そのものに個の概念が希薄なので、
権利や義務の意識が欧米とは異なって認識されているためなのだろうか?
本来の民主主義は、自分たちが作り上げるという意識が根底にあるはずで、
だからこそ、納税も当然であるという感覚に自然になるはずだと思うのだが、
日本では(私だけかもしれないが)役所の仕事は遠いところで威張っているだけだし、
税金も、使途も分からず口出しもできないままに強制的に吸い上げられているように感じる。
だから、一体感もないし信頼感もないのだろう。
私は、すべて昔が良かったというつもりはないのだが、
日本人が日本人として作り上げてきた制度には重要なものが潜むと思う。
何でも欧米が正しいという発想こそが間違っているとしか思えない。
医学の発展から見えてきた最新のことを貝原益軒は江戸時代に唱えているし、
おばあちゃんの知恵袋が科学的知見に勝ることは誰でも知っている。
日本の年功序列制は、制度としての是非はともかく間違っていなかったと思う。
年齢も関係なく成績順に並べることは日本人の価値観に馴染まないし、
現実にそれで社会が良くなったとは思えないのである。
あたりまえだが、だから年功序列はいい制度で欧米でも導入すべきなどと
間の抜けたバカ話をするつもりなど毛頭ない。
欧米の制度は、その国の人たちが自分たちで作り上げてきた仕組みである。
当然、自分たちの宗教観・価値観・ものの見方考え方に照らし合わされ、
歴史の先例を受けて育まれてきた制度であるし、
日本の制度も同じことなのである。
世の中の制度はあらゆるものが絡み合って成り立っている。
だから、ある部分だけを欧米型にしても破綻するに決まっている。
すべて、何もかも、言語でさえも欧米に習うのであればそれで良いかもしれないが、
では日本人が日本人たる所以はどこにあるのだろう?
というか、そもそもそこにいる人間が違う。
日本人の全否定から話をするつもりなのであろうか?
話は変わるが、日本でも一部の学会で公用語として英語をつかう。
私がこれに反対なのはこの欄の読者の皆様にはご理解いただけるだろう。
ただ、英語を公用語にすることを推奨する人間には、
その反対論者の意見を耳に入れようなどと思わない。
日本人がたどたどしい英語で発表をして、
それに日本人がたどたどしい英語で質問をする。
やはり何かがおかしいと思う。
いま、国家観が大きく揺らいでいるように感じる。
その揺り戻しの動きも起こっているのかもしれないが、
「保守」という言葉に古くさいイメージがつきまとうのか、
あるいは「改革・革新」などに理知的な雰囲気が漂うのかしらないが、
あらゆるレベルで欧米化の流れが止まらないように感じる。
日本と欧米は違うのだということを理解しないで
理屈(しかも欧米の論理)だけで話をしてしまう傾向に諦めにも似た気持ちになる。
とにかく政党には国家観を示して欲しい。
憲法の解釈を示して欲しい。
日本国を、日本国民をどう守るのか明確にして欲しい。
各論の議論はもういい。
少なくとも総選挙の時にこの国をどうするのか態度を示してもらいたい。
子供手当も減税も増税も、そんな議論はもういいから、
この国が向かうべき方向を示して欲しい。
それが共有できれば国民は痛みを耐えると思う。
選挙の時にだけあめ玉をぶら下げるのはやめて欲しい。
どうせ、口に入りっこないあめ玉、
あるいは孫子(まごこ)から借金をして買ってもらうあめ玉には興味はない。
それよりも、孫子の代にこの国をどうするのか教えて欲しい。