想定外って・・・

今回の地震についてのさまざまな報道からいくつも考えさせられる。

いかに私見を書くが、そのほとんどすべてがこの10日あまりの報道で耳にしたことであり、

どの報道がどの話を伝えていたかまったく覚えていないので

データとしては不正確な箇所も多々見られるとは思う。

ただ、言いたいことは本質的に以前から思い続けてきたことである。

 

まずは「想定外の地震・津波」としきりに言われることだ。

文献によると貞 観 11年(西暦869年)に東北が大きな地震に見舞われ、

その痕跡を解析したところ仙台平野一帯に大津波が来たことが示されているそうだ。

これは千年以上前の話なのであまり関係ないと言われているのかもしれないが、

でも、大地震に大津波はこの地域に実際に来た訳ですよね?

私が子供の頃から「すぐに来る」と言われている東海地震も、

「すぐ」とは明日かも分からないし50年後かもしれないという時間の感覚だし、

そう(地球のレベルで)考えれば千年間隔ってことは

可能性としては「起きうる」とすべきだったのかもしれない。

だって、現実に先日の地震&津波に近い被害の痕跡が認められるのだから。

それに、テレビの解説者はもう一つおもしろいことを述べていた。

それは、東北地方にはそもそも古い文献がほとんどないために、

この時の各地の被害は分からないし、

それどころか、これ以外にどれだけの規模の地震がどれだけの頻度で起こったのか

これがまったく分からないと言うのだ。

だから、この「千年に一度」というのもその科学的根拠は低いのかもしれない。

言えることは「千年前にはいちど起こっていた」に過ぎない。

 

もう一つ、これは今回の地震の規模がM9と訂正された時に

過去の大規模地震と比較されて解説がなされていたのだが、

戦後にM9を越える地震が環太平洋地域で5回起こっているそうだ。

そう考えると、プレートが潜り込む場所での巨大地震はどこにだって起こりうる。

この、太平洋レベルで見た時の日本列島の小さいこと。

この日本列島で、さらに小さく地域を区切って地震の確率を計算している。

学問的にそれはそれで意味があるのかもしれないが、

結局は大きな目で見るとどこにだって低いながらも同じ確率で起こりうるように思える。

 

そう考えた時に「想定」とは一体なんなのだろうか?

「想定外(だから耐えられなかった)」ということばのあとに、

「だから、私たちには責任がない」が続いているように思える。

で、原発みたいなものの「想定」をどう決めているのか?

私は、さすがにM10や100mの大津波を想定しろとはいわない。

しかし、日本の同地域でも千年前に起こった地震や津波は当然想定してしかるべきじゃないか?

また、プレート型地震に関してはM9クラスの地震が起こるという前提で

あらゆる危機管理体制を敷くべきではないかと思うのだ。

これは、今回の地震が起こったからいうのではない。

むしろ、今回の地震で明らかにされた「想定のゆるさ」に気付かされ

びっくりして「当たり前のこと」を言っているにすぎない。

 

少し話は横にそれる。

神戸空港のことである。

私は神戸市民であり、空港には反対の意見を持っているので神戸空港の話になったが、

まあ神戸空港に限らず他の空港でも、いや空港に限らず高速道路でも同じ議論はできると思う。

空港の計画段階では、実際を大幅に下回る利用者数の予測が必ずと言っていいほど提示され、

それを元に計画が進められることが多いと聞く。

そして現実に神戸空港でも利用者数は予測を下回り、

その後に日本航空の完全撤退など利用者は減り続けているそうだ。

普通、危機管理とは最悪の状況を想定してそれを回避する手段を模索する。

とすれば、利用者予測もあるいは周辺地の売却計画も、

考えうる最悪の事態を予想してその対策も含めた計画を立てるべきであろう。

だから、多くの公共事業でいわれていることだが、

やはり、「建設するための想定」であったと思われても

結果を見たら何も言えないだろう。

そこにいかなる理由や説明が加わったとしても、

その事態を想像できなかったのは事実であるからだ。

そして、その被害に遭うのは国民であるという事実に気付いていないことが腹立たしい。

 

と考えて、「おや?」と思ったことが報道されていた。

何と、神戸空港の想定震度は6らしい。

で、ウィキペディアにあたってみると開港は2006年2月とある。

えっと・・・その10年ほど前に震度7を経験しませんでしたっけ???

これも、穿った見方をするならば(穿ち過ぎかもしれないが)、

耐震強度を震度7に合わせるのと震度6に合わせるのでは建設コストがかなり違う

ってのがその理由だと想像できないだろうか?

とすれば、「想定値」というのはその計画の安全性を元に考えられた基準ではなく、

その計画を進める為の基準であるとならないか?

どんな理屈を並べられても私にはそう感じられてならない。

 

さて、先日の地震での原発の問題である。

想定外の地震&津波だと何度も報じられる。

で、どうもその責を東電が負わされているように感じる。

なにか決定的な違和感を覚える。

この原発計画を承認したのは政府だろう。

「安全だ」と言い続けてきたのは日本国だろう。

この事故の責任は誰が取れるのだ?

東電は国の許可をもらい、国の審査基準に適合して建設をし稼働していると言うだろう。

国は、学者が想定値を出し、それに適合したから承認したというのか?

では学者はなんと答える?

学問的には予測不可能だったとでもいうのか???

でも、その学問的想定には必ず異論があるはずである。

何かを建設する時には周辺の環境問題を議論されるが、

その時にも学者の意見はいくつかに分かれる。

しかし、なぜか「都合の悪い」意見をいう学者は委員会には入らせてもらえない。

だから委員会に入れてもらえる学者のことを御用学者という。

もちろんどこの世にも文句ばかりいう奴らはいるから、

すべての学者の意見が正しいというつもりはない。

ただ、だからこそそういう学者も検討委員会には入るべきだろう。

で、すくなくとも原発のように「何が起ころうとも失敗は許されない」施設の建設には

極端に最悪のことを想定した議論もしておくべきじゃなかったかと思うのである。

 

この議論では「めちゃくちゃな意見をも聞き入れろ!」という論理に誤解されるか?

言いたいのはそうではない。

千年前とはいえ仙台平野を被い尽くす大津波が現実に起こっている地域だよ、

10年ほど前に震度7を経験した地域なんだよ、

プレート型の地震ではM9はどこでも起こり得るんだよ、

こういうことを前提に話が進められなければ危機管理ではない。

 

耐震性など、想定値が上がれば上がるほど建設コストは膨らむことは容易に想像できる。

だから、コストパフォーマンスの問題としても考えなければならない。

極端に言えば、これだけの震災がこれだけの確率で起こりうる、

そしてその時に想定される被害はこれだけになる、

だからそのためにはこれだけの設備にしなければならない、

その建設コストはこれだけで、しかしこれだけの予算しかない、

こういう情報をすべて開示すべきだと思うのである。

そして、でも電力消費量をまかなうにはこれを作らなければならないとした時に、

消費電力を徹底的に抑える暮らしを、極論すれば原始時代の暮らしを我々が覚悟できるのか、

あるいは今の暮らしを追い求め、「想定外の」災害が起こった時はそれを甘んじて受け入れるのか、

そういうことを国民が考えて国民が決めなければならないと感じる。

まあ、ここに書いたのはかなりの極論でちょっと現実的な議論ではないので、

各論は、専門家が市民を交えて別に論じなければならないが、

言いたいことの趣旨はご理解いただけると思う。

 

上に書いた事柄は素人が外から見ているだけなので間違っているかもしれないが、

危機は危機として認識するところが極めて危ういと感じられるのだ。

「最悪これだけの危機が想定できる」ってのが想定値でしょ?

でも、現実には「ここまでの危機だったら建設は可能だ」が基準になって、

その建設可能な値が「想定値」になっているとしか思えないのだ。

 

私の感覚では、「人体に影響がない」レベルであっても原発の事故は許されない。

だからこそ、「想定値」は科学的に正確で、かつ厳しい危機管理意識を持って決めて頂きたい。

私たちの持っている「最新の知識」なんて

地球の寿命から見たら1秒にもあたらない程度のことなんだから、

自然に対しては謙虚すぎるくらいに謙虚であってしかるべきではないかな?