はじめに言葉ありき

聖書の言葉である。

この言葉についてたまに議論されているのを目にする。

その議論の大体のところは、

「人は言葉で思考する」だから・・・って感覚だろう。

そこで、少し違う目線で考えてみよう。

 

言葉がなければ何が問題となるのだろうか?

まず思考するすべがないと考えることはできる。

これも突っ込んでいくと議論が難しい。

なぜなら私は、思想・哲学のような論理体系は

言語の論理体系とは異なると考えているからだ。

だから、言葉がなくても別の論理体系を構築することはできそうである。

ただ、もしかしたら言葉という仲介を経ないで

いきなり別の論理体系を脳に形づくるのは現実的ではないのかもしれない。

なぜなら、言葉なくしてはその論理体系を伝えることができないのだから。

 

これとは違う見方として、

言葉がなければ物事を切り出せないということが考えられる。

要するに森羅万象のあらゆるものがカテゴリー化され名前が付けられている。

逆かもしれない。

名前を付ける為にカテゴリー化すると考えてもいいのではないか?

名前のないものは認識できないのだからこの世には存在しない。

この世のすべてのものは人の脳が認識しない限り存在し得ない。

だから、言葉なくしてはこの世のありとあらゆるものが存在できない。

こういう見方で、この聖書の言葉を見直してみたら

全く別の世界が広がらないだろうか?