危機への対処
新聞報道によると、地震発生時に首相は原発に海水でも何でも注入して
とにかく冷却し続けるように指示を出したそうだ。
東工大で物理を専攻した「理科系」首相の勘による指示だといわれる。
しかし、炉が使えなくなるからと東電側が海水注入を拒否し、
このままでも安全だと伝えたことから
首相はトーンダウンして結局は安全宣言?をしてしまったらしい。
で、炉心溶融がおき、水素爆発が起き、放射能が外部に漏れと
結果は現在われれが見せつけられている状況である。
あの時に首相は自分の勘を信じて行動していればこんな事態は避けられただろう。
さて、そこで考えてしまう。
もし、最初の考え通りに海水を注入し続け原発を安全に保つことができていたとして、
それがどう評価されたかということである。
安全に原発を停止することができた場合にはもちろん今のような事故は起こっていない。
だから、海水を注入しなかった場合の評価ができない可能性がある。
海水を注入しなくたって安全に停止できたという議論ができそうだからである。
そうした場合に、海水を注入して原子炉をしよう不可能にしてしまった責任だけが
各方面から追求されるということはないだろうか?
原子炉一基がいくらするか知らないが、
とんでもない高額であることは簡単に想像できる。
その責任論が噴出するのは怖いだろう。
結果として何も起こらなかったことを評価されない。
何となく日本の政治家の議論を見ているとこの手の責任追求が異常に多いような気がする。
日本の政治家というよりも、日本人に多いのかもしれない。
まずは何事も起こらなかったことを評価するという考え方をもたない限り、
あとの責任を考えると重大な決断がどうしても遅れがちになるだろうし、
何かが起こってから初めてその対処をする訳だから
結果として場当たり的な対応しかできないのは当然だろう。
何か起こる前に最悪の状況を予測してその対処を決断するのは難しいだろう。
状況にもよるので一般論にはできないが、
何も起こらなかったことを評価せずとにかく何かを非難する姿勢を改めない限り
この国の危機管理体制は危ういと感じざるを得ない。
東電が首相の提案を拒否した背景にも
このような感情が多少は存在しているのではないだろうか?