生データとその解釈

政府は、東電はなぜ生のデータを出さないのだろう?

とにかく定期的に生データを出し続けることが重要ではないのか?

 

生データに解釈を加えると恣意的になる。

だから私が学生と議論をする時には、実験条件と生データを絶対に出させる。

その後に、学生の解釈を聞かせて頂く。

解釈だけを聞いて次に進めたら間違いなくとんでもない方向に進む。

これは経験上明らかなことである。

友人の京大教授は、学生のノートを夜間にこっそりと覗き見するらしい。

そうしないと、正しい研究が行なえない。

学生は失敗を隠したいし、実験が進んでいるように見せたい。

あるいは、データも自分の望む方向にバイアスをかけて解釈しがちである。

もちろんそこには悪意などない。

「こうだったらいいのになあ」が、いつのまにか「こうだ」と頭の中で変換される。

そして、その「恣意的な」変換に自分自身が気付かない。

これはある種の人間の性(さが)だろうと思う。

 

また、「解釈」の連鎖も恐ろしい。

学生と教員の議論であれば学生の個人的なバイアスのかかった解釈にさえ注意を払えば済む。

しかし、そこに何段階かの解釈が加わったら生データを見ない限りどうしようもない。

東電が何らかの解釈をしたデータに政府が更なる解釈を加えたら、

それはもはや科学的な性質のものではなくなる。

 

卑近な例で恐縮だが、

私たちはよく利用する溶液の類いを10倍濃度で作り、

それを薄めて使用している。

その「原液」を作る際に、正確に試薬を計るのはいうまでもないことだが、

それでも、例えば10グラムを計量する時に9.8グラムで止めることはしない。

「もう少し」と思って結局10.2グラム入れてしまう。

少ないことを「足りない」と感じ、「足りる」まで入れる。

これが多くの人の心理だと思う。

だから、同じ「誤差0.2グラム」でも多くなることの方が圧倒的に多い。

原液を薄めるときも同様だ。

100mlの原液に900mlの水を加える時にも、

99mlだと「もう少し」の心理が働いて結局101mlを入れてしまう。

一回当たりの誤差は無視できるが、

これが繰り返されるとその誤差は無視できないレベルに達する可能性がある。

多い方にも少ない方にも統計的に同じ頻度で誤差が生じている場合には問題はなかろうが、

誤差に何らかの傾向が生じる場合には無視できないことになる。

 

東電も政府も「無駄に不安感をあおりたくない」と思っているはずだ。

これは悪意のある隠蔽ではないし情報操作でもないだろう。

でも、その気持ちの「傾向」が同じ方向を向いている限り、

そこから生じる誤差は無視できなくなる。

現場の社員がもつ生のデータが本社に伝えられる時に恣意性が加わり、

本社でデータの解釈をする時にも恣意性が加わり政府へと流れる。

そして政府でも同様のことが起こるとすれば、

もはやそれは正確な情報とは言えまい。

問題は、各段階で「自分たちだけが恣意性を加えている」と思っていることだ。

自分たちの勝手な判断で加えられた恣意性は、

他のステップではそのままゆがめられずに伝達されると

各段階の人たちは思っていることだろう。

そして、そこに情報操作とかねつ造とかいう意識は全くないはずである。

それが怖い。

 

とにかく自動的に例えば1時間おきにでも各地点の放射能レベルを公開する。

爆発や火災が生じた時には、時を置かずその情報を公開する。

それをした上で、その情報に対する見解を述べれば不安は収まると思う。

現存する不安はひとえに「政府が情報を隠しているのではないか」

「実は公表されているよりも悲惨な状況なのではないか」という不信感だろう。

それを払拭するには生データの公開しかないと私は感じてならない。

これは私が研究者だからなのか?