本格推理の論理
ここでも「本格ミステリ」と書きたいところなれど
ミステリを推理と書こうと言ってしまったので本格推理とする。
本格推理あるいは本格ミステリの「本格」については
分かりやすくてみな同じ感覚を持つと思っていたのだが、
どうもそれぞれの理解が異なるようだ。
私はとにかく論理性に徹底している謎解き小説を本格だと考える。
だから、トリックに特化している必要は全くない。
プロット全体に謎をかけて、それを論理的に解き明かしてくれればそれでいい。
というか、無理矢理なトリックを力技で見せられると興ざめする。
塔がボルトで客室部分がナットとなっており、
それらをねじって20階をこっそり21階にするなんて言われても
「ああそうですか、それはそれは・・・」としか言えない。
ちゃんと伏線を張っているとか言われても
別に強く否定もしないが肯定は全くできない。
ということは、私の言う論理性とは「屁理屈」とは一線を画するという事だろう。
もう一つ、本格の論理性とは言語の論理を超えてほしいと感じる。
伝達手段は言語だけであるから言語の論理は成立していなければならない。
ただ、言語上の額面の論理性では上滑りしてしまうように感じる。
そして、多くの本格推理小説がこのレベルで止まっているような気がする。
では、どういう事が重要なのかと言えば、これは表現が難しい。
言語が言語のまま頭に入ってくるのではない、
言語によって表現される論理性を超えた論理が
読者の脳の中に構築されなければならない。
これには高度な作文能力が求められるような気がする。
作者の頭に構築されている本格推理の論理性は、
間違いなく言語的思考ではないだろう。
これを、いかにして読者に伝えるのか?
それも言語という論理体系を介するって事で、
ここには微妙で繊細な表現力が要求される作文能力が不可欠であろう。
読んだあとで筆舌に尽くしがたい印象を残す論理性とでも言うのが適切か、
とにかく、筆舌に尽くしがたいという表現がそのまま正しいと思うのだが、
言語表現を超えた論理が言語によっていかに表現しうるのか?
ここが本格推理の論理であってほしいと思う。
これは、実は翻訳の作業だろうと思う。
まずは作者の頭の中にすばらしい論理の構想がなければならない。
しかし、その後の表現活動は、頭の中の論理を言語の論理へと翻訳する作業であって、
外国語で書かれた論理を日本語に変換する作業と何ら変わりはないのだろう。
ただ、これが行き過ぎると読者を選ぶ事は間違いない。
「黒死館」にしても「虚無への供物」にしても「ドグラ・マグラ」にしても、
その本質の理解は一筋縄にはいかないものだ。